吾等の宣言 (1)

屹生

一般自由人の崇拝、個人のとらわれたる幸福のための闘争を排し、刹那せつなより刹那を移る幻影におぼれんとする切情せつじょうを打消し、永遠の事と物とに対する情熱的態度、それが人生の理想であると信ずるが故に、我々は現在唱えられつつある一切の手段を排して、現在に依拠し現在を視凝みつめてこれを探究し、歩一歩この方向に向って邁進まいしんせんとするものである。我々はこの標示に基き、現下の状勢にかんがみ、左記二項を提唱せんとする。

イ、 新聞は天下の公器である。正義をけいとし、公益をとし以て終始すべきものである。そしてその報道をこそ全生命であると信ずる古来幾多の先覚者はこれにって社会の文化教養につくした。極微力なるものといえども社会的淘汰性?に依って、その時代の幾分の文化に貢献したことは我々といえどもこれを認む。しかれどもそれが社会を指導せんと自惚うぬぼれ、その捉われたる謬見をもって輿論よろんなりと傲語ごうごし、めにする所のものの為めに利用せられ、色付けられたる時、我々は、それがかつて如何に社会的貢献ありといえども、これを踏みにじる。そこに新聞の新聞[たる]を我々は必要とする。

ロ、 老い朽ちたる老人達よ、きょうらの跳梁ちょうりょうによって我々青年を日蔭ひかげ者にするばかりでなく、或る場合同じ太陽の子たる我々の生命の糧をも奪い取る。我々は彼らによって育まれた時代があったけれども、彼らが我らの発展を妬み、これを閉塞せんとする時、我々はこれに反抗する。我々にも生くる力あり、生長の自由を持つ。もはや汝のごとき頽廃せるかたまりに邪魔されるものではない。頑迷なる資本家、無智なる権力階級また同じ。

いずれ如何なる時代にも欠陥はある。欠陥のない社会、不満足不平のない社会には決して進歩というものがあり得べきはずがない。進歩のない社会、それは生きた社会ではない。亡者の社会である。美しい社会ではなく、よごれた社会である。そこに平和があるごとくで、決して真の平和ではない。無為にして化する時代は、夢を説く事の好きな、夢にひたる事を誇りとする支那人が最も尊ぶところである。無為にして無為に処するはこれ死の形である、と吾々は信ずる。現在における不完全なり欠陥なり不満足に基いて、何とかせなければならぬ。何とかして見たいと考うる事、そうした願望を人間が人間に抱くという事、その反逆の心は、それは或る場合には僭越なようにも聞える。ちりに依って、塵に生き、塵に入る、短くして無力なる、そうして人間としてその自らを静観する時、矛盾と錯誤と欠陥ばかり余りに多く目に付くのに眩覚げんかくしている人達は、その大胆さに喪心するかもしれぬ。けれども如何なる時代にも、平和を欲求すると同時に反逆者の絶えた事がないことは歴史の示す所で、平和にる反逆のために、より大なる平和を得る。平和のための反逆、反逆のための平和といった相関により、社会は進歩して今日に至ったもので、この相反する二の力は非有意的に、如何なる微細な事にも、また如何なる場合にも現れている。すなわちそこに、社会に意義があり、人生に意識があり、吾々は生き甲斐のある生活をなし得るのである。あだなりと信じつつもなお求むる心、それがなければ人生は干乾びた沙漠さばくのようなものであると云えよう。吾々の云う欠陥美は即ちこれで、人々がその信念のために信念に生きる時、そこに幾多の障害がある。唱え出された個々の力、それは弱いものであり、もろいものであろうけれども、一度社会によってこれを承認せられ、人々に是認せられ、賛同せられた時、それが初めて炎となり、力となることがいつの時か来ることを吾々は信ずる。故に不完全なる社会の諸相に対する反抗ともいうべく、現在に唱えられつつある諸種の運動をも、これを認めるものである。

〔大正11年2月13日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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