貧者の生活――荒谷君に寄す(上)
鵜飼桂六
本文は拙著『貧者の霊魂』に記述せんとする一篇である。
私にとって貧は無二の生活である。貧は進化と革命とに燃ゆる熱血児ではなくて、これとは全然異った形の思想を持つところの精神主義者である。貧は資本主義、社会主義のすべてを通じて、富まんことを欲するあらゆる唯物主義に反旗を翻す。貧は一切の所有を超越した赤裸々なる無一文の生活を以て理想とする。貧は衣服なきものと共に酷寒苦に安んじ、食物なきものと共に飢餓線に安んじ、住居なきものと共に家宅難に安んずる。これゆえに貧は勇敢にして忠実なる人生の批判者である。貧は額に汗してパンを獲ることを主張する。パンを奪うものがあるなら奪われるままに従う。そは罪悪がパンを奪われるものにあるのでなくして、パンを奪うものにあるからである。貧は身に襤褸を纏うことを主張する。綾羅を飾るものがあるなら飾るままに委ねる。そは醜事が襤褸を纏うものにあるのでなくして、綾羅を飾るものにあるからである。貧は人間に茅屋に住むことを主張する。邸宅に起臥するものがあるなら起臥するままに任せる。そは虚偽が茅屋に住むものにあるのでなくして、邸宅に起臥するものにあるからである。貧の個性が持つ潔癖は啻にこれのみにとどまらない。貧はあらゆる場合において、淫夫、娼婦と交わることを拒否する。蓋し、不義の享楽は人間生活の最大罪悪なるがためである。貧はあらゆる場合において、飲酒、喫煙に耽ることを拒否する。蓋し、不正の行為は人間生活の最大醜事なるがためである。貧はあらゆる場合において、掠奪、力利に流れることを拒否する。蓋し、不善の所業は人間生活の最大虚偽なるがためである。貧は絶対に且つ完全に富に対して否定的である。忌避的である。そこに貧の魂がある。心がある。精神がある。生命がある。生活がある。かくて貧は言う、人間は悪には最も弱く、善には最も強かれ、と。
私の生活観はここより出発する。相対的に言えば、貧は富に対する名称である。けれども人間の最高憧憬が絶対自由の生活にある限り、貧は常に単純化された究竟性を持つ。そして貧は屡々原始的なる自然美を愛する。一木の生長するを見ては喜び、一石の偉大なるを見ては喜び、一鳥の飛躍するを見ては喜び、一獣の跋渉するを見ては喜び、一虫の来往するを見ては喜び、一魚の遊泳するを見ては喜ぶ。荒野も、田園も、水流も、森も、林も、山も、すべては貧にとって驚嘆すべく、畏敬すべき緘黙の世界であり神秘の宇宙である。貧は尽くることなき美の自然界の裡に自らの生命が限りなく融合していることを観る。陰影と暗黒とに密閉された都会の地上生活において貧は「光明の光明」を発見し、直視する。このゆえに貧は全く夢想、幻想、空想の天国に在って、詩と、絵画と、音楽とを唯一の親友としている。かくて貧は沈思な黙想と、深刻な静寂との間に、ほとんど人間が想像する限りにおいての奇蹟的風景を観賞して、而もその最短距離に置かれてある所に崇高にして且つ荘厳なる仏陀の英姿と聖霊とを適確に認識する。貧が未だ曾て純真なる魂を失わなかったのもこの点にあり、貧が未だ曾て素朴なる心を失わなかったのもこの点にあり、貧が未だ曾て高潔なる精神を失わなかったのもこの点にあり、貧が未だ曾て深遠なる生命を失わなかったのもこの点にあり、貧が未だ曾て敬虔なる生活を失わなかったのもこの点にある。かくても貧は人間生活の窮極であるところの最聖、最真、最善、最美のものと言われないであろうか。曰く否な。私はただちに然りと断定するに躊躇しない。
〔大正11年3月20日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕