限り無き憂愁を抱きて
村田生
霊魂の不滅という事や、永遠の生命という事や、永劫の世界という事の上に、どうしても理解を持ち認識することのできない自我を凝視しながら、寂寞と孤独と憂愁と恐怖と哀傷と快活と歓喜と皮肉と銷沈と興奮と、あらゆる交錯した感情の中に、人生に対する無限の懐疑を解こうとして絶えざる煩悶懊悩を続けています。
私共は生きるために働くのでしょうか、働くために生きるのでしょうか。働くということは生活の条件であって、それの意義ではないのではありませんか。そうかというて仕事をしなければ死ぬために生きているようなものであります。快楽に生の意義があるとすれば、私共の日常の生活はすべて苦しみではありませんか。超個人的なそれでいて人類的な仕事がそれだとすれば、ほとんどすべての人間はそういう仕事をしないで死んで行くではありませんか。人生は全く空虚であって、無意義なものである。死んだ人を哀れむ時は、単に生き残っただけの自分をさえ幸福に感ずるのであります。ルッソーの所謂「自らの中に常に死せんとする総てのものを取り除けること」が生の意義だとすれば、あまりに、我々にとっての人生は堪え難い努力ではないでしょうか。
私は私の前にあくびをしている空虚の外に何物も見ないのであります。ただそれによって私は生き、ただそれの中に私はうごめいているのであります、こうした時には苦痛をさえも感じません。すべての事に冷笑が伴ってまいります。荒んだ心の持ち主は絶えず愁わしい冷笑を持って社会の事物に接して居ります。しかるが故に人生は孤独であり、苦みであり、生より死への寂寥たる旅であると言いたいのであります。
然るに何が故にこの堪え難き生存を維持し、空虚の生活を余儀なくされて甘んじているか。何が故に限りない憂愁の心に然も一種の憧れを感じているか。また何が故に真に苦みつつも煩悶懊悩の中になお生に対する極度の執着を感じているか。生に対する絶望と呪詛との底から何が故にこの生に対する熱愛の情が生ずるか。それは私の憂愁は前途に光明のない厭世でなくて、底の力を押えつけた閉ざされた気持であるのかもしれないからである。即ち可能なる事に対する熱い予期、理想に対する熱愛、これが私の中にあって動かし難い生の意義となっているからである。
もし私は、私が何を望んでもいいと言うなら、富も力もいらない、可能性の情熱を望む、と答えるだろう。永久に若く、永遠に可能性を見ようとする熱望に燃えている眼を望むだろう。如何なる試練にも堪え得る誠実と、如何なる事にもぶらつかない興奮と、山をも移すところの信念を望むであろう。有限を無限に結びつける思想を望むであろう。
故に私にとって必要なものは、即ち私の要求するところのものは、自分自身が何を為すべきかに明瞭になることである。何を認識すべきかは問題でないのである。私の目的(運命)すなわち神が一体私をどうしようというのか、如何なる使命を負わせているのか、自分は如何なる可能性を要求しているのか、それを了解しようとするのが重大なる問題であるのである。私にとって真理であるところの真理を見出すこと、私がそのために生き、そのために努力しようとするイデエを見出すこと、それが必要なのである。ここに私が客観的真理を見出したとて、それが私の生活に何らの深い意義をも持っていないとすれば、それが何になるものか。私の必要とするところは、私の単なる認識生活をするかわりに、充実したところの人間生活を送ることである。私はこの世で余計な事は求めない。ただ私の魂の中に歓びの住む場所と、歓びを作り歓びを持つために全力を集中し得る対照とがあれば好いのである。
しかるが故に私にとっては恋愛は一種の宗教であり信仰であるとも考えられる。恋愛は単に人格と人格との赤裸々の接触を要求するばかりでなく、その中に生ずる猛烈な肉感性をして凡て宗教性の方に向け更なければならないのである。
ああ、私は恋せねばならない。而してこの主義的断片的な官能の愛から宗教的な神の愛、人類愛にまで昇って行かなくてはならない。しかもそれは単なる思想の道においてばかりでなく、矛盾と緊張と沈潜と苦悩と破裂と飛躍との険しい人格の道において実行しなければならない。人生は戦いである。よく戦う他によく生きる道はないのである。(3・23 和辻氏 キエルケゴオル を読みつつ)
〔大正11年3月27日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕