二つの道 (1) ロシアとインド

小林橘川

世界はいま二つの道を歩んでいる。吾々われわれの前には、二つの道がたがいに並行して、交叉こうさするところなく、いずくまでもと続いているのである。その一つはロシアの歩みつつある道であり、の一つはインドの歩みつつある道である。ロシアは、人も知るがごとく、ロマノフ朝廷の倒れ去ったあとに、新しい無産者の国家がひらけているのである。それを代表するものはレーニンである。インドは大英帝国の属領として、独立と自由とをうしなった三億の民衆が、国家の独立を奪還せんともがきつつある国である。それを代表するものはガンデーである。レーニンはロシアの旧国家を完全に倒した英雄であり、ガンデーはインドの旧国家を恢復かいふくせんことを夢みつつある志士ししである。しかもこの二人は、ともに時代の風雲児である点において、現代世界の好一対こういっついであるといわれている。

ロシア一億の民衆が脱ぎすてた古い国家の旧衣きゅういを、インド三億の民衆は、熱愛の情をもって身にまといたいと願っているのである。これはロシアが進歩しているのか、はた、インドが遅れているのか、一概にここで簡単に結論することはつかしい。しかしながら、ただ、ロシアにはロシアの心があり、インドにはインドの心がある。この二つの心は、国をことにし、民族を異にし、事情を異にし、境遇を異にしつつある国柄くにがらの民衆の、辿たどらねばならない自然の道であることだけは明かである。スラヴ一億の民衆に号令するレーニンと、インド三億の民衆をひきうるガンデーとの相異そういは、自然の道を、ありのままに歩んでいるにすぎないだけのことである。古き国家を壊滅したるロシアの運動と、はたまた古き国家を恢復せんとするインドの運動とは、お互いに相容るることのできない、違った距離(というよりもむしろ反対の立場)に立っているけれども、それは畢竟ひっきょう自由への道」の進行にすぎないのである。

自由への道」、それは多くの人類の、心から求めてまない切ない道である。それがロシアにありては旧国家の破壊となった。それが印度いんどにありては旧国家を恢復するの熱情となった。レーニンとガンデーとの差は畢竟ロシアとインドとの差である。ロシアとインドとの違いが即ちレーニンとガンデーとの違いである。この二人の国を異にしたる革命家の辿りつつある道は、あまりに甚だしくかけ離れている。永久に一致することもない別々の道を歩んでいるようであるけれども、二つの道の底を貫くところのものはただ一つの「自由への道」である。

ロシアの歩みつつある道と、インドの歩みつづけている道とが、いま世界の前に、最も鮮明に、はっきりと開けているということは何という悲しいことであろう。この二つの国は、いずれも資本主義の発達したる国ではない。いずれも大工業の発達したる国ではない。ロシアは名高い農業国であり、インドは有名なる綿花の国である。近世産業の革命をもたらしたといわれる大きな機械工業はロシアにもインドにもまだ発達していないのである。すなわち資本主義はいまだこの二つの国においては十分に発達していないのである。然るにロシアが突然、社会主義的革命を成し遂げ、インドが精神的革命を成就せんとしているのは、何という皮肉な対照であろうぞ。社会主義者に云わせると、資本主義の極度に発達したる国家に、社会主義が勃興しなければならぬはずである。社会主義の学説理論から云えば、まさにかくあらねばならないはずである。しかるに事実は必ずしも然らず、社会主義者の学説を裏切って、産業の未開国たるロシアとインドとに革命の風雲急ふううんきゅうなるは、どういうものであろうか。

これは、思うにロシアの革命もインドのそれも真に民衆の理性的なる、合理的なる要求から生れているのではなくて、民衆の多年、抑えに抑えられたる感情の激発にすぎないのではあるまいか。社会問題といい、思想問題というも、畢竟、理論によりて口火を点ぜられないで、民衆の感情から点火されているのではあるまいか。ロシアおよびインドは世界革命の爆破門またはまさに爆破すべき危険なる動揺国として注意せられているが、それは要するに圧抑あつよくされたる民衆の「自由解放への爆破」の感情ではなかろうか。

〔大正11年4月5日 『名古屋新聞』 2面論説〕

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