宗教の死活問題――階級闘争をどうするか
(一)
東洋においても西洋においても、仏教もキリスト教もその他の宗教も、現代生活に対しては、殆ど全く生命を失っている。これを活かすの途は何であろうか。
勿論、考え方によっては、宗教は死ぬべきものではないから、したがってまた復活すべきものではないとも言われる。神は死ぬべきものではないから、神と人との関係を律するところの宗教もまた永遠不死である。しかしながら、人間が神人の関係を正当に律すると否とによって、宗教にも生死があり興廃がある。この意味において既成の宗教を活かし、または未成の宗教を生むの途は何であろうか。
是れ今日および明日の宗教にとって最大の問題である。
(二)
労農ロシアではボルセヴィズムが新しい宗教的情熱を帯びつつあるが、社会主義ないし共産主義が真に宗教たるためには、謂わゆる階級闘争を超越することを要するであろう。少くともマルクスに従えば、労働者と資本家との闘争は最後の階級闘争であって、その目的とする所は、階級を、従って階級闘争を無くするにある。社会主義も共産主義も、それが果して完全に実現せられるものとすれば、それは階級闘争が完全に目的を達した時、すなわち階級闘争が全く無くなった時、換言すれば、人間が完く階級闘争を超越した時に、始めて完全に実現せられる。そうして社会主義ないし共産主義が真に宗教であり得るのは即ちその時においてである。古来、宗教が戦争した例は稀でないが、独り階級闘争に限らず、その他いかなる闘争でも、いやしくも闘争と呼ばるべきものは、宗教の本質と相反する。闘争に従事または加担するのは宗教がその本質を離れて堕落した時であって、宗教の本質は、仏教で言えば「能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ、慈仁なき者には慈心を起さしめ、殺戮を好む者には大悲の心を起さしめ、嫉妬を生ずる者には随喜の心を起さしめ、愛著する者には能捨の心を起さしめ、諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ、驕慢多き者には持戒の心を起さしめ、瞋恚の盛んなる者には忍辱の心を起さしめ」云々の精神に在り、キリスト教で言えば「汝の敵をも愛せよ」というに在る。果して然らば今日のごとく切りに階級闘争が説かれ、かつ行われつつある場合に、これに対して積極的行動に出でないのは活きた宗教というべきか。今日の宗教は余りにも無為無能ではないか。勿論、今日の宗教も一般に幾分は階級闘争の非を説き、或いは多少の社会事業も行いつつあるが、階級闘争の激烈と社会問題の逼迫とに比すれば、余りにも小胆姑息であって、真に正々堂々と階級闘争の非を鳴らし、進んでこれを除くため全力を捧げる者はなく、会々トルストイやガンヂィや賀川氏や西田氏のごとき人はあっても、それは概ね「宗教」の埒外に立つ人々であって、謂わゆる宗教の闘争排斥は寧ろ資本階級や支配階級に媚びんとするものが多い。斯くて謂わゆる宗教は、啻に現代および次代に活き得ぬのみならず、更に現代および次代に生きんとする真の宗教の発達をも妨げるところのものである。
(三)
顧みれば近世になって宗教は二度躓いた。最初には近世科学に躓き、神秘や奇蹟を放棄して合理や実証に迎合した。科学と調和を保ったら宗教の生命を継ぎ得ると考えたのであろうが、事実はこれに反し、科学に迎合すればするほど、宗教はますます権威を失った。そうして宗教が只管科学に迎合する間に、科学の電子説などは却て神秘説に近づき、在来の宗教は天理教や大本教や大霊道のごときものにすら勢力を奪われるに至った。近世科学に躓いた宗教は、更にその次には世界戦争に躓づいた。世界戦争を防ぎ得なかったのは、キリスト教国の恥でもあり、仏教国の恥でもある。もっとも、近世の実証科学および今度の世界戦争に躓づいた点においては、宗教も社会主義も同断である。殊に世界戦争では社会主義は見苦しく跌いた。戦前、各国の社会党は、第二インタナショナルを組織して、国際戦争に反対し、あらゆる手段を尽して戦争を防止するの責任あることを決議し、かつ無産者の団結によって戦争を未発に防止するの威力あるごとく信じたのに、世界戦争の勃発するや、各国の社会党は概ね資本家と協力して戦争の遂行に努力した。故に以上の二点においては、宗教も社会主義と同罪だといい得るかもしれぬ。否、宗教は社会主義よりも多く恥ずべきであるが、今や第三の暗礁として宗教は階級闘争に跌かざるを得るや否や。社会主義の階級闘争以上に勇気と熱心と確信とを以て階級闘争の非を説き、これを除くことによって階級闘争による以上に徹底的な社会改造を行い得るや否や。これに面を反けるのは生きるの意思なき宗教であって、実に階級闘争こそ宗教が生きるか死ぬるかを定めるところの試金石である。
〔大正11年4月30日 『名古屋新聞』 3面無署名論説〕