社会運動の宗教化

永井柳太郎

思想界は混乱して、諸種の主義思想が入り乱れて、蘭菊の美をほしいままにしているのが現代の有様である。しかしそれはいずれも真理の一片を示すもので、真理の全面ではない。マルクスもクロポトキンも社会主義も共産主義もボルセビズムも要するに真理の一面を我らに教え示しているだけで、それが真理の全体であると速断してはならない。これらの主義者のいうところは極めて一方面に偏傾へんけいしているけれども、現代の社会組織、経済組織に対する深刻なる批評としては社会主義に超ゆるものがない。それは社会主義の一功績である。社会主義の鼻祖びそマルクスは吾国わがくににおいては早くも人気を喪いつつあるようであるが、それは恐らくマルクス祖述者の一方的に傾注したる宣伝が、かえって一般人からあきたらなく感ぜられているがためではなかろうか。

元来マルクスの思想はアダム・スミスとリカードに負うところがあり、しかもスミスは一の倫理学者であって、純粋の経済学者ではなかった。スミスの「国富論」は彼が経済学者としての不動の地位を定めたものであるが、しかしそれに先だってスミスには「道徳情操論」という名著がある。一七五九年彼が三十六歳の時、グラスゴー大学の道徳哲学教授という肩書において、この道徳情操論を著わしたことを思えば、スミスの経済学説の背後には倫理的主調に裏づけられていることを知るであろう。マルクスはそのスミスの影響をうけて彼の社会主義的学説を建設したのであるから、マルクスにはスミスの倫理的影響をっていることは否み得ない事実である。されば社会主義を全く単なるパンの問題として解釈するがごときは、真にマルクスを理解したものではない。

マルクスはスミス、リカードに直接影響をうけたことは勿論であるが、さらにさかのぼってマルクスはルソーおよびカントの影響をうけている。しかしてルソーの思想は新宗教の開拓者であるところのルーテルを受けているのである。すなわちマルクスの思想中には宗教的血統の多分を包含しているというべきである。それが今日、日本で説かれているように、全く唯物的な、物質的なるマルクスの一面のみをマルクスであるとするのは、未だマルクスの真面目しんめんもくを理解したものとは云われない。

今、ロシアは世界の大きなる謎である。しかし由来ロシアのペートル大帝はチュートンの血をうけ容れているし、ドイツ人にはスラヴの血を混入している。すなわちロシアとドイツはその血統において最も親しい関係があり、両者は自然に一致すべき傾向をっている。さればロシアの将来はドイツ流に教育せられて、結局ドイツのごとき社会主義的共和国となるのではなかろうか。ロシアは教育において後れた国である。そして労農政府は目下全力を国民の教育に注いでいる。さればロシアが学問的にドイツの知識を受け容れたならば、ロシアの将来はドイツ化し、露独一体となるのではなかろうか。これは世界の将来を考うるものの注意しておかなくてはならぬ問題である。

英国の社会主義はドイツのようにそれほどマルクスにかぶれていない。最近のギルド社会主義を見るものは、それがマルクス流の唯物史観からははるかなる距離に立っていることを知るであろう。そして英国の社会主義は基督キリスト教社会主義といわれるほどに宗教化しているのである。一九二〇年九月一日プラーグにおいて万国宗教労働者大会が開かれた。その時英国の労働卿バーンス氏は

予はマルクスの経典によりて労働運動をなすものではない。予は実に基督教によりてこの運動を為すのである。

との大演説を試みて喝采を博した。ヘンダーソン氏も同じく述べて云わく

キリストはデモクラットであった。故に予もまたデモクラットでなければならぬ。

と。かくのごとく社会運動の根柢には宗教があり、信仰がなければならぬ。キリストはその意味で実にこの世に剣を持ち来ったものである。改造運動の根本原則はかくしてキリストから生れたものである。

〔大正11年6月1日 『名古屋新聞』 2面論説〕

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