理智をすてよ――私の宗教観

小林橘川

永い間、文明人をわざわいしてきたところの科学万能の病弊をようやく真面目まじめかえりみる時代が来た。万人の心をとらえて放たなかった理智万能の世界にゆるみが来た。現代人は多くの迷信をもつ。中にもその最も甚だしいのは科学を信仰するところの迷信であった。けれども科学の迷信から吾等われらがのがれでねばならないという要求が、日に月にふかくなってきた。科学の知りうるところは、限られたる人間の智識をもって、限られたる小さき世界の一小部分の極めて僅かにしか触れ得ないのである。人は科学の智識をもって造りあげたる法則に合ない事柄を、すべて理外の理をもって説明しようとする。しかし今日の科学では、人間の発見したる法則に合わないところの理外の理法の方がむしろ多くなったようである。それは科学の中でも最も科学的であるといわれる医学の方面において著しくそうである。小さき智識の範囲内において、人は何を知っているというのだろう。そうだ、人間はその誇るところの科学によって、何を知ったと断言するのか。哀れむべきものよ、汝は科学の迷信者である。

けれども現代人はそのつところの智識のふかく、領域のひろいことは、人類歴史あって以来、たぐうべくもない。いかなる古代の、どの文明時代の智識をとって見ても、今日の人類がもっているところの智識の百分一、または千分一にだも及ばない。古代埃及エジプトの文化も、古き印度いんど、支那の文明も、遠き希臘ギリシヤ羅馬ローマのそれも、到底現代人のもつところの豊富なる智識、潤沢なる幸福、多趣なる生活様式に比ぶべくもない。奥ふかき谿河けいがのほとりの藁屋ですら、夕べとなれば里のように燦爛たる電灯の光が終夜またたいているのである。これは現代人の有つところの幸福の一つである。それは古代文明史のどこを探しても、見当らない大きな光りである。バビロンの王城内にも、ローマの宮殿にもかつて見出されなかった光りが、しず伏家ふせやに光っているのである。けれども現代人の智識では何故山谿さんけいの水が光りとなるかを教えてくれない。それはただ水が火となるという事実を示してくれるだけである。吾等の知識はほんとうに知りつくしたのではない。ただ知ったと信じているところのものは、外面的なる事実だけにしかすぎないのである。おお、哀れなる科学よ、浅はかなる智識よ、それがどれだけの価値があるというのか。

宗教とは何ぞや。それは吾等人間の智識の限りなく浅墓はさはかなることを信じたところから出発する。人間が端的に有限にして微弱であることを顧みるところに宗教がある。人間が有限にして微弱であるとの直観は、この宇宙の無限にして偉大であるということに対応するところの感じである。無限と、永久と、偉大とのすべてを包容しつくしてなお限りなく存在するところの無始無住の当体とうたいそのものを知るときに、人は心から謙虚ならざるを得ない。勿論、宇宙の無限と、永久と、偉大とを直観するのもこの心である。人間としてのわれの存在の浅墓にして微弱なることを知るのもこの心である。けれどもほんとうにものの姿のありのままを見るものには生きものとしての人間の弱小を感ぜざるを得ない。そして永遠をこいしたい、悠久にあこがれゆくところの夢のような感じに浸らざるを得ないのである。いかなる理智をその間にしはさんでみても、理智に比べて、それはあまりに大きく、あまりに遠く、あまりに高きをいかにせん。

浅きこの頃の夏の夜、しずかに出でて星の空を仰げ。ほのかなる月の光を仰げ。野をわたる薫風におもてをふかれながら、星を見、月を見てどんな感じを有つであろうか。夕顔のほの白い花さく頃、行水つかう軒端に、虫の音のなきしきるころ燦として輝く空の星を仰いだとき、人はどんな心になるであろう。お前の理智よ、人間の科学よ、智識よ、それが少しでも役立つべき役目をもつであろうか。汝の智識をすてよ。汝の分別をすてよ。汝の理智に囚えられることなかれ。そこに活きたる人世がある。そこに魂の宗教がある。そこに真の信仰がある。

〔大正11年6月13日 『名古屋新聞』 4面 「宗教と思想」欄〕

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