金子白夢氏著『神秘の宗教』(東京京文社発行)

(彦)

自分は個人的にはまだ著者に面識はない。そして金子氏の出した本の中で自分の読むのも今度新しく出た 『神秘の宗教』 一冊きりである。告白するが、自分は金子氏を、自分の食わずぎらいのためにか或いは今までに氏の断片的なものの幾つとその講演とをきいていたためにか、どうも虚心に自分の心は氏に対することができなかった。それはちょうど或る牧師などに対する心の眼で見るそれであったことを、いま想い返すのであって、そしてこの心の眼は『神秘の宗教』一冊を読んでその向けどころは多少違ってきたようであるが、やっぱり質的には自分の最初持ったこの心の眼は動かないのである。

ところで金子氏は『神秘の宗教』の「序に代えて」の冒頭に、「私の神秘生活のあるがままの姿は言葉に現わし得ない。私はこの現わし得ない生活の姿を象徴の形わずかにその幾分を語ってみた」と言っているが、「象徴の形」というのは何を指していうのか、自分にはこの言葉がぴったりと来ないけれど、こんな部分的なことを一々列挙したら限りがないから、それはとにかくとして、自己内在の心の径路、すなわち「私の神秘生活のあるがままの姿」が言葉に現わし得ないから、その現わし得ない心のありさまを、すなわち「生活の姿」を、「象徴の形」で語るのであるとすると、金子氏は氏自身の内部、生活の体験と思索の結実を、すなわち「思想」を、一分の隙もないところの言葉、すなわち自他ともにぴったりと融合し得る言葉を使用されないので、徒らに模索的に暗中の何ものかを探るような具合でものを言うあやふやな人という感じを自分に抱かせたのは不本意である。

しかし氏が、「さらに高く光の源に翼を張って『神』の玉座に咫尺しせきして、まのあたりその栄光の荘厳さに酔わずに居られなかった」氏自身の一如的生活体験を、広汎なる哲学的引証とその時々の白熱的感興とに任してものした点に、自分は敬服するものである。

〔大正11年6月15日 『名古屋新聞』 4面 「読書界」欄〕

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