現代日本及び日本人 (1) 日本に現代なし

小林橘川

題して「現代の日本及び日本人」というも、日本に果して現代なるものがあるか否かが疑問である。厳密なる意味において、日本は現代にき、日本人は現代に生活しているか否かが疑問である。タイムの上においては勿論もちろん、現代はある。しかしそれは暦日れきじつの上における現代である。記録の上における現代である。しかし吾等われらの活きつつある現代は過去の猥雑わいざつにして不統一なる歴史の上に活きているのではなかろうか。今もなお吾等の個性の目覚めなき封建時代そのままの生活を生活しているのではなかろうか。吾等は政治の上には現に過去時代の遺物として忘れていた超然内閣が今ごろ眼前に再生しつつあるではないか。かつて政党内閣の成立に狂喜したる国民は、三年有余の後、再び超然内閣の出現を迎えて、しかも無関心なばかりではなく、それをすらなおかつ当然なりとして弁護するものすらあるではないか。これが日本及び日本人の現代であるならば、私共はその現代は文明史家的の批判においての現代ではなくて、ただ猥雑なる過去そのものに過ぎないことを感ぜざるを得ない。

勿論現代日本及び日本人の生活には変化がある。しかしそれは変化であって必ずしも進歩でない。進歩でないばかりか退歩の痕跡の著しいのすらある。超然内閣の再生はすなわちそれである。これとともに吾国わがくに政党政治家なるものの思想にも変化はあるが、進歩はない。かつて政党内閣の成立に狂喜したる政友会が今日それを放棄して、官僚軍閥内閣の出現に極力奔走したるがごときはその著しき例証である。国民党の犬飼木堂いぬかいぼくどう翁が立憲主義を放棄して、国策主義、善政主義すなわち官僚主義の前に降伏したのもその著しき例である。政友会も国民党も、かくして立憲政治の要塞をすてて、官僚政治の軍門に降伏したのである。原敬はらけいを偉人とし、犬飼木堂を清節の士なりとし渇仰しつつある無自覚にして出放題なる言論を弄するものの存在する現代は、それは暦日においてこそ現代であるが、まことに現代離れのしたる現代である。否、過去そのままの現代である。かくして「現代日本」は「過去の日本」と何ら変るところなき現代である。十年以前、二十年以前、三十年以前、または五十年、百年以前の過去時代と大なる差違さいたぬところの現代である。そこにはもちろん変化はある。しかし進歩はない。進歩のない変化は、依然として旧態持続の外を出でない。すなわち過去即現在であり、現在即過去であるにすぎない。しかもそれはどこにも現在即未来未来即現在を生み出し得ないところの現在である。たとい時は刻々に移りて未来は現在の地位に代っても、畢竟ひっきょうその未来は変化のみありて進歩なき未来であるであろう。政友会の徒は、現にその未来を現在のごとく推移せしめんことを希望し、努力し、臆面もなくそれを発表し誓言せいげんしつつあるのにちょうしても、彼らの政治上の未来主義は畢竟現在と大差なき、むしろ過去時代と大差なき状態を空想しつつあるのである。かくして過現未の三世を一貫してただ不徹底、無自覚なる政治に活きようとするのである。これが日本及び日本人の多くを支配する生活相の一面である。

うつり気は日本人の特性である。「きのうは東、きょうは西」するものは日本人である。吾等日本人は軽快である、淡白である。物ごとにいつまでも凝滞ぎょうたいしていない。つねに変化を好む国民である。しかしその変化を好むは進歩を追及するに勇なるがためではない。ただ変化を好むがために、時に進歩に遭遇することもあり、時にはかえって退歩をすらつかむことがある。転々として流転する、そこには一貫の理法がない。すなわち一定の理想がない。あるところのものはただ変化である。目新しき変化である。政治家はこの要諦を忘れないで、つとめて人心一新を図ろうとする。内閣を改造せんとするもそれである。超然内閣を再生せしめたのもそれである。日本国民の変化を愛好する心に投ぜんとして、ただらちもなき政治家が、埒もなき内閣をつくり、埒もなき政策を掲げて、眼前一時を糊塗ことせんとするのはそれである。吾国わがくに今日の為政者は、過去時代のそれと同じく国民の変化性に応ずるに急にして、国民の進歩性に対応しようという理想がない。かくして政治運動者の標語からは、いつまでも憲政擁護時代錯誤憲政逆転閥族打破などの文字をすて去ることができないのである。

明治時代を一貫したる政治上の運動は閥族打破官僚打破軍閥打破であった。しかして官僚、軍閥、閥族の打破は明治時代から大正の現代に引渡されたる大切なる遺産であって、今なおそれらを完全に打破することが出来ないのである。かくして明治時代と大正時代との間に何らの進歩があるか。ウェルスは「1914年はもはや古代史である」といった。欧州戦争開始の1914年はすでに古代史に帰属すべきものであるという彼の卓見を示した言葉である。実に欧州戦争の前と後とには古代史と現代史との差があるのである。然るに日本および日本人は政治上において、今なお古代史的生活をくり返しているのである。きのうは東、きょうは西するも、畢竟それは古代史的変化の間を往復しているにすぎない。もしウェルスをして日本のこの政情を見せしめたならば、彼は果して如何なる言葉をもってこれを批評するであろうか。

現代に生活しながら、しかも古代史的政治に活きつつある日本および日本人はまことに不幸なるかな。

〔大正11年6月21日 『名古屋新聞』 3面論説〕

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