理智の世界をそのままに (上)

成瀬賢秀

橘川きっせん兄、

私がこの文を草する前に、けい久闊きゅうかつを謝しておきたい。兄が真摯の態度でいつも紙上に筆をふるっていることを、私は見逃すまいとしている。そうした心持から、十三日目の紙上に「理智をすてよ」を読んだ。そして一夜語りたい気分に充たされた。そうしながら今日まで兄を訪ねる暇を得なかった。今夜ちょっと筆を持つ暇を得た。その代償として私をして紙上に語らしめてください。

兄はまずいった、「永い間文明人をわざわいしてきたところの科学万能の病弊をようやく真面目に見る時代が来た」と。まことにそうだ。現代科学を以て万能と信ずること、これほど大それた軽挙はないであろう。兄はこれを迷信だという。私もそう思う。体験実証なしに信仰するということ、それはすべて迷信だと思う。科学研究がすこぶる専門的に分裂して研究されている現代においては、それが真摯な研究者であるならば、ただそれ自らの研究があるのみであって、そこにどうして万能を謳歌しているような余裕があろう。恐らくば科学万能の信者は、それ自身が真摯な科学の研究者でなくて、ただそれぞれの学者の研究の結果を諸方面に見せつけられて驚かされているような非科学研究者の無智なる驚嘆者でしかないであろう。こうした傾向が現代人の多くの帰結であるならば、それは恐るべき迷信であるのだ。それはちょうど伝道師などの教えを盲信して、心証もない救いの神を信じていると同じ型の迷信であるのだ。いずれもが無智な、魂のないもののらるべき帰結なのだ。

けれども、私はこうした科学万能の迷信者流が多いからといって、真摯な科学研究者までを一束に束ねて足蹴にかけて葬り去ることを、これまた大それた軽挙だといいたい。一口に「限られたる人間の智識をもって無限の宇宙を研究せんとする、それがどれだけの無限界に既知の世界を拡げたか」といったようなことをいって、真摯な科学研究を侮蔑せんとすることは、あまりに人間の心念を見くびったものだ。私はものに早くあきらめをつけたり、見くびったりしないで、どこまでも事実の前に虔脩けんしゅうでありたい。一口に科学研究の行詰り――実際、行詰りかどうかは知らぬが――を罵倒してはならぬ。少くも、近くは文藝復興期より現代までに築き上げて来た科学の地盤は、人間の止むに止まれぬ意欲の世界の拡がりから出来上ったものだ。こうした人間文化の過程を、こともなげに罵倒してはならぬ。

現代科学が無限の宇宙に対照して、いかにも笑うべきほどのかすかなものだけれども、兄も「現代人はそのつところの智識のふかく、領域のひろいことは、人類の歴史あって以来比ぶべくもない。バビロンの王城内にもローマの宮殿にも、かつて見出されなかった光がしず伏家ふせやに光っているのである」といっているように、科学のもたらした現代人の幸福の世界を、今、私は享受している。こうした世界に居りながら、その科学を無反省に足蹴にして、一足飛びに宗教の世界に入ろうとするのか。それは少しも現代の人間生活を顧みない観念遊戯というものである。

科学によって破壊されることを恐れるような宗教の支持者が、臆病な犬が無暗むやみに吠えるように科学を罵倒して、そうして宗教を支持してゆこうとするような口吻にだまされて、雷同的に科学を罵倒してはならぬ。人間が幸福な世界を建築してゆこうとする止むに止まれぬ人間性の念願を無視してはならぬ。それをしも無視するならば、宗教それ自身が自殺しているのだ。

〔大正11年6月30日 『名古屋新聞』 4面 「宗教と思想」欄〕

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