ある青年に (1) 信仰

井箆節三

近頃世間では、何がな、しきりに宗教的な信仰を求めているようである。私も何かそのようなものが欲しいと思う。或る一派の人々に言わせると、「現今のごとき不合理な社会組織のもとにおいては、宗教的信念なぞは得られるべきものでない。大多数の人類が社会的不合理に苦しんでいるのに、自分だけが個人的に安心立命を得ようとするはけしからぬ。今の世に宗教的信仰などを求めるのは、社会の改造を回避する所以ゆえんである」というのであるが、私はそうは思わぬ。宗教的信仰はいかなる社会組織の下においても得られる。現代の社会を古今未曽有の不合理な社会のように言うのは、資本制度を呪う余りの誇張にすぎない。プラトオンやアリストテレエスのごとき賢哲でさえが奴隷制度を是認したギリシア時代に比べると、近代の社会はよほど合理的になっている。この事は後にくわしく論ずるが、大体において社会は進むに従って善くなりつつある。しかるに過去の社会において信仰が得られたのに今日の社会ではそれが得られぬというはずはない。また自己が安心立命を得るのは、決して社会の不幸をヨソに見るのではない。むしろ社会の不幸を救う所以である。社会の改造を回避したり阻碍そがいしたりするのは、真の宗教的信仰ではない。社会を最も正しく改造するところの基となるのが真の宗教的信仰だと思う。今日一派の人々が社会革命や階級闘争を求めるのに反して、他の傾向の人々が宗教を求めるのは、必ずしも社会改造を回避するのではなくて、一層よき改造を求めるのだと私は思う。されば宗教を求める人々を、一概に現実回避として非難するのは誤りであるが、さる代り、宗教を求める人はの一派の人々よりも一層真面目でなくてはなるまい。

こう考えてみると、真に宗教的信仰を得るのは容易なことではない。殊に私なぞは、如何にも自分だけが偉そうな顔をして、何ののと他人や社会を悪くいうけれども、自ら冷静公平に反省すると、我ながら随分あさましい人間であるから、とても宗教的信仰なぞというものを得られようとは思われぬ。しかし、また考え直してみると、人は誰でもその絶対的信念を持っている。もし信念ビリーフ信仰フェイスとは大体において同じものだとすれば、人は何によって生きるかといえば、それはその信仰によって生きるのである。単に人ばかりではない。およそ生きとし生けるもの、否、いやしくも世界に存在するものは、おのおのその存在に絶対的価値または最高の価値を認むればこそ、各自の存在を維持するのであって、これすなわちその信仰である。私が私として存在するのは、私として存在することに無上の価値を認むればこそであって、その信仰を失えば、私は自己の存在を失い、さる代りに他の信仰を得て他の何ものかとなって存在する。禽獣、虫魚、山川、草木に悉皆しつかい然りである。石が石として存在するのは、これに無上の価値を認めているからで、もし土になった方が善いと確信するに至れば、石は変じて土と化するのである。これについては後に電子のことをもって論証を試みよう。

ところで、ここに問題となるのは、私が果して現在の私に満足して、これに無上の価値を認めて居るかということであるが、私は「然り」と答えざるを得ぬ。なるほど、私は現在の私に色々な不満を抱いていて、我ながらあさましい人間だ、もっともっと善い人間になりたいと思ってはいるが、しかし、それはただ頭の中で思うだけのことで、全身の細胞悉々ことごとく一斉にそう思うのではない。夢なぞでは色々なものになってもみるが、さめればヤッパリこの私であるのも、ただ脳髄で空想するまでのことで、全身でこれを体験するのではないからだ。

頭脳で考えるのは知識であって信仰ではない。全身で考えるのが信仰である。すなわち信仰身考だ。知識は脳得であって、信仰は体得である。

知識は精神の食物で、なまかじりの粗野な知識が自己の人格または個性によって消化せられると、これを知慧と謂い、それが充分に消化せられて全身の営養となり、細胞に浸潤し、血となり肉となり骨となると、これを信念といい、それに形而上学的な観念が加わると、これを信仰というようである。

信仰のためには理知を放棄せよとか超越せよという人々もあるが、それは具体的には如何なることか。マウパサンの遺稿として最近に公表せられた「グロオス博士」という小説でも、三人の思想家が哲学の意義を論じ合う場合があって、その一人は哲学とは知識を消化することだと主張するが、知識を消化するとは自己でこれに組織を与え、統一を施し、取捨選択を加え、自己の人格に融会ゆうかいし、自己の生活に実現することだと思う。

されば知識は必ずしも信仰と相反するものではない。知識に富んだ者がこれに貧しい者よりも信仰に入り難いのは、消化に骨が折れるからである。さる代り、豊かな知識を消化した結果の信仰は無智の信仰よりも広く深く強く固い。しかし余りに知識や思想ばかりを生ッ咬りに欲張って詰込むと、不消化病にかかる。頭に新知識を詰込み、口に新思想を喋々ちょうちょうしても、自己の品性や実行のこれに伴わないのは、これをよく消化し得ずして、そのままに嘔吐または下痢する胃腸病者で、その病症としては知的センチメンタリズム(感傷主義)に陥る。世にはカラダでは現実を是認し、現実に衣食しながら、頭の中や口のさきでは現実放れして、さほど有難くもない理想を馬鹿に有難がったり、さほど呪わしくもない現実を誇大にのろったりする人がある。昔からこういうのを無信仰と呼ぶのではなかろうか。無信仰とは知識の不消化知徳の不調和知行の不一致を謂うのではあるまいか。

〔大正11年8月2日 『名古屋新聞』 3面論説〕

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