無産階級運動の方向転換(上)

井箆節三

(1)

東京や大阪や神戸や福岡に比べると、わが名古屋における労働運動は、最近(昨年の秋)に至るまで甚だ振わなかった。これがために「名古屋の労働者は因循で姑息で意気地無しだ」といわれた。しかるに近頃では名古屋における労働運動の勃興は、全国でも最も著しいものとして注目せられている。私は名古屋の労働運動がこの気運に乗じて健全に発達することを切望するあまり、ここに一言を費したい。

(2)

労働運動の発達は労働組合の発達に待たなければならぬ。しかるに我国わがくににおける労働組合は従来はたして健全な発達を示したであろうか。最近に内務省の発表した簡単な数字によれば、我国の大工業地たる東京、大阪、兵庫、神奈川、福岡、岐阜、愛知の二府五県における昨年末日現在労働組合員は総計八万六千二百七人であって、この統計を信ずれば全国の組合員は十万に達するであろう。しかしこれをイギリスの組合労働者七百五十万、ドイツの一千二百万、アメリカの四百万に比較すれば、余りに貧弱であるのみならず、我国労働運動界の表裏の事情に精通する山本忠順やまもとただのり氏の言によれば、この八万六千というのは、一人で甲の組合と乙の組合とに加入せるものを重複した計算であって、その重複を整理すれば、全国の組合員数は四万以下に過ぎまいという。しかもこの四万の半分すなわち二万内外は日本労働総同盟すなわち旧友愛会に属し、友愛会は大正元年に発会式を挙げて以来、今や十周年になんなんとし、近く十周年大会を開くことになっているが、この十箇年間においてその会員名簿に登録した労働者数は実に十万に上ったのに、現在残っているのは右の二万内外に過ぎずして、八万内外は折角せっかく加入したにかかわらず、ことごとく同盟を去ったのである。すなわち会長鈴木文治氏も「友愛会創立以来十一年、その間この運動に参加した人々は、少くとも十数万に達するであろう。而もこれらの人々は、ポロリポロリとこぼれ散って、今残っているのは、比較的新しく参加し合同し来った人々である」というが、これらの新しい参加者もまたポロリポロリとこぼれ散ってしまうかもしれない。また同盟以外の組合も栄枯盛衰えいこせいすい常ならず、今年は福岡に栄えたかと思えば、来年は兵庫に繁栄が移るという有様で、現に日本労働総同盟会員の半数すなわち一万を有する大阪聯合会は一昨年夏までは千に足らぬ少数の会員を有せしにすぎず、これに反して昨年の今月二万の労働組合員を有した神戸では現在一千の組合員も持たない。即ち労働組合に加入する者は必ずしも少くないが、どうも永続きしないで、折角加入した者もたちまち会を去ってしまう。そうして甲地でも乙地でも丙地でも次から次へと衰靡すいびして、最近には我が名古屋へ繁昌はんじょうが渡って来たのであるが、従来のような調子では、これも果して永続きがするや否や疑問である。

(3)

かえりみれば明治三十年に東京鉄工組合が出来て、翌年一周年記念式を挙げた際には、会員が早くも四千に上り、全国に四十の支部も出来た。二十六年も前の当時においてすでに然りである。我国の労働者は決して労働組合の必要に無自覚なのではない。されば今日までには労働組合も余程発達して居るべきであるのに、それが発達しないのは何故であるか。

かつて労働運動界にあって活躍奔走した所謂いわゆる主義者で、その表裏の情偽じょうぎに通じ秘密の鍵を握るという人々の説によれば、今日まで我国の労働組合を亡ぼすものは、官憲や資本家の外部的圧迫ではない。もし今日までの労働組合が労働者の実感的要求に一致するならば、外部的圧迫のごときは決してこれを亡ぼすに足らぬが、今日まで労働組合を亡ぼして来たのは、外部的圧迫ではなく、組合の内部における幹部の専制的支配心および小野心家同志の暗闘である。即ち少数の指導者が自己の興味と野心とのために労働者の実感的要求とは全然懸離かけはなれた社会主義の空虚な理想を労働者に強制するからである。労働組合はこれがために外部よりも内部から崩壊するのである。

(4)

西洋の労働組合では、必ずしも社会主義なぞの理論に囚われず、理想は理想として置いて、それよりもまずその理想に達するまでの準備として、労働者の教育や失業防止に力を尽すのであるが、我国の労働組合は斯様かような方面のことに甚だ冷淡であって、殊に近頃は社会主義が大流行なので、軽佻浮薄けいちょうふはくな連中はこれを生ッかじりにして、抽象的な理論に囚われ、労働者の実際的な切実な要求には目もくれず、むしろ労働者が生活の改善や賃金の引上のごときことを要求するをろうとし、甚だしきは労働者を窮地に陥れた方が彼らの階級闘争心を強めるから良いなどと考え、労働者が今急に欲しがりもせぬ要求を無理に強制するのである。これがために今日まで、どれだけ労働組合の発達を妨げ、労働者に痛手を負わせたかも知れない。これらの嘖々者流さくさくしゃりゅうは、偶々たまたま労働者のために計って深切しんせつな穏健な説を吐く者があると、忽ちブルヂョアだなどと罵倒するのであるが、いずくんぞ知らんや、折角の労働組合を片ッ端から亡ぼして歩く彼らこそ、労働者の仇敵であって、資本家の走狗であろうとは。

〔大正11年8月10日 『名古屋新聞』 3面論説〕

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