文化と修養 (1)

井箆節三

(1) 理想の意義

文化というも修養というも、つまりは同じ事のようです。ちょっと外国語を使いますと、文化とはドイツ語でクルツウア、修養とはイギリス語でカルチゥアとい、元来は同じ意味の言葉です。その区別をいえば、文化とは社会的な意味、修養とは個人的な意味で、儒教の言葉でいえば、修養は修身しゅうしん斉家せいか、文化は治国平天下ちこくへいてんかに当ると言ってよろしいようです。

文化とは価値の実現ということだそうですが、価値とはすなわち理想のことで、それを理想とは謂わないで価値というのは、普通にいう理想とは意味をことにするからです。普通に理想といえば、遠大な理想だとか高遠な理想だとかいって、何か容易に手のおよばぬ遠いところか又は何年か後の遠い未来にでもるようですが、真の理想というものは、必ずしも高いところ遠い時に在るのではない。我々の心の中に在る。キリストが或る人に「キリストの理想国すなわち神の国は何時いつ何処どこに実現せられるか」と問われて、「神の国は何処どこに在るとか此処ここに在るとかいうべきものではない。神の国は汝等なんじらの心の中に在る」と答えましたが、ちょうどこれと同じ意味で、真の理想というものは吾々われわれの心の中に在る。吾々の心の中からおのずと現れて行く。仏性ぶっしょうまたは如来蔵にょらいぞうというのもその意味でしょう。高いところや遠い時に在るものなら、果してこれに手が届くか届かぬか分らぬのですが、自分の心の中に在るとすると、誰にでも、また何時でも、これに手が届くはずです。すなわち実現し得るのです。実現し得ぬものは理想ではなくて空想ですが、理想は実現し得るものです。そうして個人的な理想を個人的に実現するのが修養で、社会的な理想を社会的に実現するのが即ち文化である。即ち修養とは自己改造のこと、文化とは社会改造のことだと解しても宜しいようです。

ところでここに問題になるのは、心の中とは何であるか、心の何処どこをいうのであるか。

ドイツ流の哲学でいうと、それは心の奥底であって、すなわち心の奥底の根本的要求をいうのである。すなわち良心をいうのである。良心といえば、普通には道徳的なものであるが、道徳的とのみは限らぬ。善悪の価値を判断するは道徳的良心であるが、真偽の価値を批判するのは科学的良心であり、美醜を判別するのは藝術的良心であり、利害を判断するのは経済的良心であり、正邪を判断するのは法律的良心であり、その他種々いろいろの良心があって、これを綜合統一するのが宗教的良心である。くのごとく理想とは良心の価値判断であるから、これを価値というのである。

ドイツ流の新カント派では右のように説くのですが、イギリスやアメリカの常識的な哲学では、これとおもむきを異にします。すなわち心の中とは心の全体であって、良心というものは先天的だの神の声だの至上命令だのというような、ソンなあらたなものではない。やはり後天的に色々な知識や経験を積むに従って、発達生長するものである。すなわち人間の心の中には種々の欲望があって、その欲望を経験や知識の力で取捨選択整理統一してゆくのが良心であり理想である。

斯様かように意見を異にしますが、これは要するに一つの事を絶対的と相対的と二つの立場から説いた結果であって、いずれも半面の真理たるを失わぬと思います。即ち良心というものは先天的でないといっても、「ない」とか「ある」とか断定するには、やはり何か先天的な判断の基礎が無くてはならぬ。さりとて先天的な基礎ばかりで判断が充分だとはいわれない。その先天的な良心の上に色々な欲望が発生する。その欲望を後天的な経験で整理しなくてはならぬ。狂人は自己の欲望を理性で統一することの力に乏しい結果であって、健全な人間は夫々それぞれに自己の欲望を統一している。その欲望の統一が個々の個人の理想である、個々の社会の理想であって、その理想の実現が個人の修養であり社会の文化である。これで幾分か理想という意味がハッキリしたと思いますから、次には理想を実現するには、即ち自己を改造し社会を改造するには如何にすべきかを論じます。(巡回講演)

〔大正11年8月26日 『名古屋新聞』 3面論説〕

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