物質生活も向上せしめよ

精神運動に偏する者に与う

亀山半眠

社会は堕落だらくしたという。人心は軽佻浮薄けいちょうふはくに流れ、思想は悪化したという。堕落したり浮薄となったり悪化するのは物質文明に偏重した結果で、物質文明そのものに罪は無い。

物質文明の耽溺から目覚めたお互人間は、その反動として精神生活の勃興を企図し、これが主張と運動に熱中するは、勢いの当然やむを得ないことであるが、その割合に永遠的生命の持続なく、一時的線香煙火せんこうはなび的なるは何故であろうか。

世人、口を開けば物質文明の弊を呪い、社会組織の不合理を叫び、これを矯正すべく精神生活に重きを置くも、物質文明に偏した結果が今日のような社会を生じたごとく、精神生活を偏重して生ずる結果もまた怖るべきものではなかろうか。甲に偏することを非とする者が、乙に偏することもまた非とせねばならぬはずである。

今日の精神運動者が、社会を堕落より救うは単に精神生活(無論それが実行表現を説いているが)によってのみ導き得らるると過信するところに矛盾があり、持続性を欠いている。

我々は精神生活を向上せしむると同時に、物質生活をより以上に向上せしめねばならぬ。どんなに名論卓説があっても、要するに物質生活を度外視しては意義がない。吾等は肉体にも生きている以上、物質生活の合理的向上を図らしめねばならぬ。

然らば如何にして物質生活を向上せしむるかの問題が生じて来る。ここにおいて従来吾等が採り来った生活様式に、幾多不合理的冗費の支出されてある事を研究考察し、各々分に応じ、良き家、良き食物、美しき衣服を着るべく、物質生活の向上を図らねばならぬ。

この物質生活を考慮に入れざる精神生活の運動は生命が無い。持続性が無い。一時的であり、線香せんこう煙火はなび的である。したがって物質生活の経験に乏しい青年に一時的感激は与えるにしても永久性が無い所以である。吾等は精神生活に努力すると同時に、合理的に物質生活の向上を忘れてはならぬ。

〔大正11年9月21日 『名古屋新聞』 4面〕

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