秋立つ前

金子白夢兄に

佐藤一英

「一年のうちでわたくしが最も好む季節は秋たつぐ前の、あのものうい夏の終りの日、一日のうちでわたくしがそぞろ歩きする時刻をいえば、落ちなんとしてなおたゆたえる日輪が、微白ほのじろい壁に黄銅の、窓わくに熔銅の光を映すおりである」 (マラルメ作「秋の嘆き」の一節。有明訳)。

私は、父が命名したこの茅屋あばらや土筆庵つくしあん」の書斎の窓から、折々、ペイジをる手をとめ、ペンを立てかけては、この「衰頽」のよそおい——黄金と緑とのあやしくも織りまじる庭木を眺めいるのである。 そこにはパリのマラルメのさまよう影は、もうみるべくもない。 ここ日本の片田舎の落日の洪水のなかに私が眺めるものは、あの平氏没落の日の一場面——もえる赤陽のなかに、ささえを離れた、扇のまう海景である。 私は敵に賞讚の叫びをおくる。それは同時に己れのばん歌である——その華やかにも哀切きわまりない木魂こだまがきこえるようである……

なつかしいものは、「日本」がもっているその民情、言葉である——またこれは、吾等の華ではないか。 白夢はこの華をむしりすてようとするごとき、粗野な心情の人ではないはずである。 私はあの君の「エスペラント論」をよんで、君が思違いをした事を知った。 私もエスペラントには賛成である。 同時にローマ字採用にも手を挙げる者である。 が、国語をすててエスペラントにかえるのは大反対である。 私がいう主意は、国語の問題のうち、文字を目当てとしている(むろん、それにともない、言葉も精錬されるは当然であるが……)。 国際語をもって国語にかえるとはあまり己れを守らないものではないか。 己れの民情を無視しすぎることではないか。 民情と言葉との美妙な連絡を君が知らないはずはない。 あえて君の考慮をわずらわすのである。

日本語においてのローマ字採用、国際語としてのエスペラント採用は、政府の仕事を待っていないで民衆自らの手によってなすときであることを付言する……

詩人と国語とは、もっとも密接な関係に立つものであることは私のもとから感じているところである。 つねにその時代の言葉文字を精錬する先輩は詩人であった。 弘法大師においても、芭蕉においても、それは顕著である。 私もこの点重大な使命を帯びていることを自覚する者である。 私の詩集『晴天』も、出版社側の支障や変更で、遅延していたが、十月には確実に上梓の運びとなっている。 それについて読者のうち国語研究者の方に希望するのは、私の文語使用、口語使用の効果を『晴天』によってしさいに見てほしいのである。 私は本年に入ってからは、全然文語詩を廃して、詩集『獨語』をかいているが、私が断然文語詩をすてた導火を、心ある人は前の詩集『晴天』によりてみてくれるであろう。

いま私は、ローマ字についてなお研究中であるが、来年出版の詩集『獨語』には、その方の詩作も編入できるであろうと思っている。

マラルメの「秋の嘆き」は続く……あたかもそれとおなじく、わたくしの魂が愉楽をおぼえる文学は羅馬ローマの末期に息絶ゆる詩歌でなくてはならぬ。 だがその文学は蛮族の回生的精神の些かの浸染もなく、はたまた初期基督教徒の散文に見るおさなげな拉典ラテンどもらぬものであるべきはもとより言うを俟たないのである」 —— ひるがえって吾れらは、日本言語史上における漢字の輸入、「稚げな漢語を吃る」文字により、いかに多くの民情までを害せられたであろうことを沈思せねばならぬ。

〔大正11年9月24日 『名古屋新聞』 2面 「反射鏡」欄〕

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