現実に即して (1)

労働組合

荒谷宗一

井箆いの君の御説に口真似をするようだが、 我々日本人の社会運動が、 ともすれば余りに足下の現実を離れて、 千里も万里も飛び離れた空想的な議論に有頂天になりがちなのは、 随分困ったものだと私も思う。

名古屋に一個の労働組合を組織しようとしても、 直に、 第三インターナショナルがどうだとか、 バクーニンが何とか云うたとか、 八釜やかましい議論があちらからもこちらからも飛出して来る。 単なる議論や批評や嘲罵ちょうばだけならまだ結構だが、 進んではそういうつかしい議論のできる人達の御意見に合わないからと云うて、 いろんな打ち壊し運動——と云うても大した事でもないが、 演説会の妨害をしたり、 集会の空気をかき乱したりして得意がったりする。

マルクスもバクーニンもレニンも知らない無学な労働者、 そうして現在の苦しさにまりかねて、 ともかく仲間の組合でも作って少しは楽になり得ようかと、 やっとの思いで組合の集会に顔を出した労働者たちは、 この恐ろしく六つかしい議論と隻手せきしゅで天地を引繰り返すような凄まじい鼻息に吹き飛ばされて、 小さな肝玉をぶっつぶしてしまい、 組合なんて七里結界しちりけっかいふるえあがって逃げ出してしまう。 「万国の労働者、団結せよ」 なんて勇ましい叫びを挙げて勇往ゆうおう邁進まいしんするわが勇敢なる社会運動者諸君は、 一体労働組合を作るのが目的だやら、 壊すのが本意だやら、 頭の悪い僕らにはとても判断がつかないような始末である。

一体、日本の、名古屋の、労働組合と、 何十年も昔に死んだドイツのマルクスや、 いま生きているにしても千里も離れて別の世界に住んでいるレニンやトロツキーと、 どれほどの関係があるのだろう。 無論、彼らの優れた議論や偉大なる行動が世界の労働者の運命に重大な影響を及ぼしていることも事実だ。 したがって我々が彼らの主張について考え、 或いはその行動のあるものに見ならう必要のあることもあるではあろう。 けれども、まだ自分の立つべき足もとも定まらず、 彼らの議論行動の是非善悪を批判するだけの予備知識さえも全然持ち合していない労働者に、 どうしてそんな真似が出来よう。

実際、我々労働運動者にとって一番必要な事は、 まず第一にどうしたら我々はもう少し楽になれるか、 どうしたらもう少し明るい希望をもって二十世紀の文明の市民らしい愉快な生活ができるようになるか、 ということだ。 たとえ資本主義の下にあってはそうした希望は到底達成されないにきまり切っているものであるにしても、 そうした結論が本当に腹にはいるまでには今少し秩序立った思考と研究と、 更に切実な体験が必要ではなかろうか。 いろはを習い始めの子供に論語は分らない。 すべての者が成長することを信ずる我々であるならば、 も少し幼い者を尊重し大切にし、 その面倒をも見て健全な成長を祈らなければならぬはずだ。

ましてまだ今の世の中では唯物的社会主義だけが唯一最上の改造原理であると決定したわけではない。 無論、社会主義者の諸君はしかう決定したものと信じているではあろうけれど、 公平に観察して、 まだそこには理論としても実際としても大なる疑問の余地が残されている。 たとえば社会主義理論の全体系は何と云うても、 つまり我々の経済生活における生産と分配とを如何にすれば公平に為し得るかという純粋経済理論の範囲を出ない。 諸君はこの経済理論を重要視するの余り、 我々の経済生活さえ公平にせられば、 人間一切の生活関係を公正にして愛に満ちたるものとする事ができると主張するが、 これは確かに部分にとらわれたる偏見であって、 決して公正な議論ではない。

社会改造が完全に実現され、 人間生活の全体が正しく建設されんがためには、 経済生活以外にももっと多くの、 もっとより深く、 より高大な幾多の関係が正しくされなければならない。 そうして単適たんてきにいえば、 社会を構成するすべての人々がもっと正しい智恵と深い愛とを持って生きるようにならなければならないのだ。 経済組織の改造は、 社会改造の重要なる一部分を為すものである事は勿論だが、 その全体ではない。 本当に改造の全的作用を為すものは、 まずお互いが各自の個性を改造することだ。 そうして改造せられたる個性の生存に適するよう、 その周囲の関係を更改こうかいすることだ。

つまりお互いの霊魂の問題であり、日常生活の問題である。 ロシヤの事でもドイツの事でもないではないか。 いまの日本の、名古屋の、労働者にとって一番大切な事は、 まず各自が人間としての霊魂の自覚をもつことだ。 そうしてその自覚した人間らしい生活を、 自分と周囲とに開始することなのだ。 それが賃金問題となり、 時間短縮の問題となり、 自主的労働の問題となるなら、 それは正しいことだ。 それが革命となるなら、 革命もむを得ないし、 それが非革命となるなら、 それもさしつかえのないことだ。

根柢のない、自覚のない、ただ人真似に革命のための労働組合を作れと云うたとて、 それがなんになろう。 私たちはそんな空っぽな運動の手先に使われることは真っぴらだ。 ともかく今の労働者には、 もっと知識と営養と慰安とが必要だ。 この切実な必要を満たして、 人間らしい生活をさせてくれる組合が欲しいのだ。

〔大正11年10月3日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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