酒と煙草について

酒井照嚴

世は今や濁世じょくせである。 滔々とうとうとして罪悪は瀰蔓びまんし、 人心は堕落に瀕している。 いよいよ全人類がこぞって目覚めねばならぬ時が到達した。 姑息な表面的な改革や画策は、今や何らの権威を持っていない。 魂の奥底にあるものを引出して、 結びつけなければ、新しい改造は望まれない。

「酒、煙草たばこの害は云うもらなり」 とは尋常小学の読本に掲げられたる、誰も知る一語である。 酒と煙草の害を教科書にまで掲げておきながら、 なぜ政府は煙草を製造し、のみならず専売するのか? また何故酒が害毒であるならば、 酒造の禁止令をかぬのか? こんな事は先刻御承知の事で、 いまさら余が呶々どうどうするまでもないが、 一体人間というものは八万四千のアフリクシャンを具足した凡夫、 昨日聞いてもぐ今日は忘るる身、 実に煮ても焼いても喰べられぬ、 しぶといしぶとい徒らな輩である。 このあさましい凡夫に対して、 政府がいかに声を大きくして、 やれ禁酒せよの、やれ禁煙せよのとわめき立てるのは、 ちょうど飯を与えつつ蒼蠅を追う類にして、 その無見識さ、愚かさに呆然たらざるをえない。 人間の本質を解せぬのも甚だしい、 愚人の囈言たわごとである。

もし吾々人類にして一度酒煙草の害なる事を知って、 直ちに改め、以てこの良習慣を永続することのできるような吾々が賢人もしくは最初から聖人であるならば、 の釈迦、基督キリストの出世も、ないし法然ほうねん親鸞しんらんらの諸上人しょうにんの尊い犠牲も不必要であったろう。 また宗教道徳すべて無用の長物に過ぎないであろう。 法然や親鸞が自ら愚痴ぐち法然房ほうねんぼう愚禿ぐとくの親鸞と言われたのも決して謙遜を誇張して言われたお言葉ではない。 過去遠々えんえんのその昔より数知れない多くの罪悪を作りつつ生れて来た自分であるから、 決して清浄無垢の身ではない、 汚れに汚れた凡夫であるとの意であるのである。 聖人にしてくのごとくであるならば、 いわんや吾々凡夫においてをやである。

もしも政府が人間の本質を解し、 同情するならば、 そんな贅沢な少なからぬ費用を投じて、 禁酒運動だの、禁酒同盟会などと、 いかさまかしこらしい大袈裟な事を言って騒ぐには及ばない。 また教科書、他の書籍等に掲ぐる必要はないのである。 もし、政府にして人間の本質を知りつつ、 なお酒煙草を売っているならば、 それは吾々の本質につけ込み愚弄しする皮肉なやり方でなければならぬ。 「飲むな、うな」と政府は云うが、 その裏面には最も皮肉な、注意を与えるだけそれだけ毒意が含まれている。 「いくら自分等が禁止せよと言っても、 彼らの悪性は直るようなことはない。面白いからもっとからかって苦しめてやろうではないか」—— 高見の見物でニヤリニヤリと、 すごいほど気味の悪い笑みを洩らしているに違いない。

否、このような事がもしなかったにしたら、 一刻も速やかに酒、煙草の販売を禁止し、 これに換うる効力のある嗜好品を考案し販売すべきである。 政府が酒と煙草は毒になると口にしながら、 公然これを専売し、 販売させるのは、 ちょうど毒薬を売っているに等しく、 あたら陛下の赤子せきしをして、 ますます体質を不健全にし、低下せしめ、 ついにはその子孫にまでるいを及ぼす事になるのである。 こうする事が果して国民を愛する政府の取るべき道であろうか?

ひるがえってまた、 消費者も消費者であると言わねばならぬ。 一度有害と知ったならば、 この不経済な、不摂生な、何らの効果もない高価の酒や、煙草を消費せぬようにせねばならない。 それが行われんとは、いよいよもって妖怪の本性を発揮し、自分の意志薄弱さを赤裸々に裏書するもので、また度し難い人物であると言わねばならぬ。 自分は万物の霊長などと余り大きな威張りようも出来ないではないか。 飲んだり、喫ったりして、体質を悪くする事が果して、 自分は愛国の士である、こんな事が言われようか。

しかしまた、 人間の本質から割り出して考うる時は、 彼らに対してまんざら憎めない、 斟酌するに余裕綽々しゃくしゃくたるものがある。 むし一掬いっきく同情の涙なきにしもあらずである。 それはちょうど、子供がうまそうな菓子を前にして喰べたがっているのを、 親がこれは毒だから食べてはならないと云ったところで、 子供は一度口に覚えのあるうまさは、 それがたとい毒であろうと、 一途に食べたい。 今、この子供のように、好きな酒や煙草が目前にぶら下っているから、 彼らも呑みたい、すいたいの煩悩に責められるのである。 有るから煩悩が起きるのである。 無ければ断念するものである。 酒や煙草をのんでは悪いがなあ、と思っても、 口にうまいものだから、 やがて見思けんしの二感の作用によって、 とうとう呑む。 煩悩の毒蛇が擡頭たいとうするのをなんとしようぞ、と言われても仕方がない。 なんとならば煩悩具足の凡夫なればならである。

政府がこの凡夫を相手にして好餌こうじを目前に与えておいて、 「呑むなよ、すうなよ」 と云うは、 ますます人をして貪欲の煩悩を盛んならしめ、 彼らをして餓鬼の苦しみを味わわせる。 政府は偉大な罪悪を作っているのである。 であるから、 政府はまず率先して煙草の製造、販売を廃し、 次に酒造家を駆逐する第一手段として、 苛酷なる税金を収めしめ、 再び立つこと能わざるまでの窮地に陥れ、 漸次その跡を根絶せしめなくてはならぬ。 もし政府が今後なお継続して煙草の専売、酒の販売を許すならば、 ただ今から、誠にやかましい、耳障りになる、そのような、害だ、毒だ、のむな、すうなと言わぬがよい。 黙して居るべきではなかろうか。

非を鳴らして売りつつあるは、いよいよもって奇怪千万、我らは政府の誠意を疑うものである。 なんの事はない、現今の政府は立派な罪悪の製造人、地獄行きの罪人でなければならぬ。 天刑にあたいするものである。

以上くどくどしく論述し来たりしも、要は、 人類がことごとく賢人、聖者になればともかく、 三毒具足の煩悩、不完全なる身であるかぎり、 到底、子供だましの悠長な事では覚束おぼつかない。 真にこれを根本的に掃蕩そうとうしなくてはならない。

酒や煙草に限らず、 げい娼妓しょうぎのごとき、 すべて世に害毒を流すようなものは、 かりそめにも世の神聖な我らの住む世界から放逐してしまわねばならぬ。 世を挙げて今や改造期に属するのである。 いわゆる過去の陋習ろうしゅうを打破し、人心を蠧毒とどくする魔物を退治し、もって理想の大日本帝国を建設しなくてはならぬ。 そうするには大いに国民の自覚をち、堅忍不抜、金剛堅固の気象を養成し、他日の誘惑に勝たなければならぬ。

さかのぼって繰返して言う、 「何事も根本から断絶せしむるにはしかず」ということを、 全人類がことごとく善人賢人になるまでは…… 見るか、煩悩具足の吾々凡夫の前には、 到底目前にある好物を閉目へいもくしているの苦痛、至難なることを! 今、社会にやかましく叫ばれている物価調節もまた、 この根本からして出発せねばならぬ。

百尺ひゃくせき竿頭かんとう、一歩を進めて声を大きくして云う、 「自身はこれ罪悪生死の凡夫である」ということを。 斯く自信し、互いに謙譲し合う事によって、そこにうるわしい平和の花は咲き、 人類等しく幸福を享楽することができるのである。

〔大正11年11月12日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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