思想界の懐疑時代

親鸞から法然

小林橘川

行詰ゆきづまった物質文明、 科学文明のたゆたいの底から、 精神文化をあこがれる心がき立って来た。 それが一種の宗教運動の形をとって、 現前の日本にあふみなぎって来た。 西田天香氏の一燈園の生活は、 懐疑的精神運動の一つとして、 どれだけ生長すべきかは疑問であるが、 唯物文明の破綻に目覚めたる運動として、 注目すべきものの一つである。

親鸞しんらん流行の時代は、もう峠を越えたかに思われるが、 創作界出版界においては依然としてまだ勢力をもっている。 悪人あくにん正機しょうきの念仏を演説したる親鸞の真宗が時人の心を惹くには、 時代にそれだけの因由いんゆうがなくてはならぬのである。 ここにも現代人の人生に対する懐疑がある。

よみものとしての老子が、 ジャーナリスティックの嗜好しこうに投じたとはいえ、 目下読書界に愛好されているのも、 人生に対する懐疑思想の発現だと云わば云われぬことはない。 虚無の思想、ニヒリストの考えは、 思想上の懐疑派に属するもので、 それが決して健全なる正当ノーマルな思想ではないが、 しかし、 そこを通過しなければ、 人生の全的肯定のみちに立つことができないのである。

かつて日本主義や国粋保存主義がそのまま無反省にうけ容れられた時代があったが、 それを今日の思想界の進歩に比ぶれば、 まことに隔世の感がある。 この数年来、わが思想界を風靡ふうびしたる社会主義思想も、 思想上の価値としては、もう過去に落謝らくしゃしてしまった。 懐疑思想は、こうして起り来らざるを得ない。 親鸞主義はいうまでもなく、 人生の懐疑思想の表われである。

親鸞を知るには、その師匠であった法然ほうねんを知らねばならぬ。 親鸞の宗教は、法然そのままではないにしても、 大部分、 法然そのものから生れている。 親鸞の真宗は法然の浄土真宗から派生したものである。 かくして読書界の流行は親鸞から法然へ一転せんとしている。 その先駆として読書界に表われたのが、 三井晶史君の創作 『法然』すなわちそれである。

著者、三井晶史君はその序文の中で、こういっている——

この創作は私が永い間親しみ、研究して来た「法然」を、 なるべくそのまま描き出そうとしたものだ。 法然の思想は、 ただ念仏によってみ仏に救われるという純浄無垢な信仰生活にあった。 その信仰生活の中に、人としての法然も、 宗教家としての法然も生きていた。 そしてその純浄な信仰が、 そのままで旧仏教に対する一切の否定となっていた。 私は、法然の歴史について、 あまり詳しく知りすぎていたために、 題材の取捨については、 いろいろの困難を感じだ。 親しみ深い法然の弟子で、 この創作にかくれているのも、幾たりとなくあるのだ。

私はこの創作をなし終えて、 非常に寂しい気がする。 親鸞流行の時代に、この創作を出すことは、 非常に苦しく、 且つ非常に寂しい気がする。

創作『法然』は、 あまりに法然を知りすぎている作者によりて、 忠実に、 あやまりなく法然を出そうとしたところに苦心がある。 それは渾然こんぜんたる一つの藝術自作物になり切っていないうらみはあるが、 あやまちなき法然の別伝として見るときは、 けだ上乗じょうじょうの作である。

法然の学問的造詣は、 親鸞とともにかなり疑問であるが、 しかしその勇敢なる学問的機鋒きほうはその著 『選択集』上下二巻に陸離りくりとして表われている。 私は十一月の雑誌 『太陽』 にその一端を 「法然の学問的功業と親鸞」 と題する一文の中に述べておいた。 親鸞の真宗も法然の浄土宗も、 この『選択集』から出発する。 三井晶史君の創作『法然』は、 その『選択集』の筆受者であった安楽房あんらくぼうの出家にその筆を起して、 いわゆる鈴虫松虫の出家の問題を取り扱い、 遂に法然の流罪から、その死にまで及んでいる。

法然の浄土宗開宗は、 吾が国の思想界においては、 画時代的の大業であった。 一切の聖道しょうどう諸宗を 「近時難證」の理由で捨て去って、 浄土の一行に勇進したのは、 実に目ざましい働きであったのである。 三井君の創作が、 その全体を正面から描くことなしに、 彼が子弟の事件から、 間接に、 しずかに見かえしている点は、 まことに落着いたものである。

〔大正11年11月21日 『名古屋新聞』 4面〕

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