悪魔の宗教

厨川白村

“Divinity of hell!”
— Shakespeare, Othello II. iii. 362.

神の宗教があるごとくに悪魔の宗教がある。そして神と悪魔との中間に人間が在る。西洋の中世伝説では、人間はしばしば自分の魂を悪魔に売付けているが、いつの世にも、知識や恋愛や真理や財物を悪魔に捧げている人間は甚だ多い。しかしそれらは、人間が自分のものを悪魔に提供したり売付けたりしているのだから、まだ罪が浅い。彼等がいつのまにか神様の物をまで持出して、悪魔の手に渡すに至っては、真に沙汰の限りである。いま宗教について、そんな事実は無いと云えるだろうか。もともと神の使徒たるべき宗教家が、いつのまにか悪魔の伝道者になり、神の宗教を悪魔の宗教にしたりしている事実は無かろうか。神の御手にあったはずの慈悲の教が、いつしか大魔王の毒手に握られたつるぎと変って居はしないだろうか。浦塩ウラジオにあるべきはずの武器が、いつのまにやら張作霖ちょうさくりんの手に這入ったように。

わたくしはまず神殿のなかに悪魔を見出だした話から始めよう。

二三年前の夏、はじめて私は東北地方へ行った。講演という野暮用のために引きずり出されて、『奥の細道』とは似ても似つかぬ殺風景な旅をした。仙台、石の巻あたりをうろつく時、案内の人がわたくしを松島の瑞巖寺とかへ連れて行ってくれた。すべての名所見物をうるさがる私にとっては、それが仙台侯の菩提所であろうが何であろうが更に用事はないので、ちょっと門の所まで行ってのぞいて見た。私はそこで、見てはならない悪魔的な或る物を見た。恐ろしとも不快とも反感とも何とも云いようのない心持ちになって、私は忽ちにして面をそむけて去った。掃き清められたこの禅寺の庭の松かげに、半点の俗塵をもとめぬこの浄域に、何事ぞ、戦利品の大砲が一つ、砲口をこなたに向けて据え付けられていた。法灯長しえにゆらめく祭壇のかげに、錆び刀よりも錆びた人殺しの道具が飾られている。墨染のころもと算盤とを、また経文と春画とを、同一の場所に見出したよりも私は不快に思った。

しかし不快に思ったのは、私の方が間違っていたのかもしれない。経典と武器、宗教と征服とは、歴史上の事実としては実に兄弟分なのである。ごく仲のよい隣同志なのである。それはちょうど、寺院の法要と銀行通帳とが、説教僧と婦女姦淫とが付き物であると同じく。

「神は偉大なり」という旗じるしを掲げて、右手に剣、左手に経典コーランを高くかかげつつ戦場に現われた者は、教祖マホメットばかりではない。南無妙法蓮華経という神聖な文字が朝鮮征伐の清正きよまさの旗を飾り、また天上の霊光に現れたという十字の記号に「この旗じるしにて汝は勝つ」 In hoc signo vinces. という神の啓示を標語として軍を進ませた者はコンスタンティン大帝であった。もともと人間の腹の中では、神と悪魔とは同居している。詩人ブレエクの口吻を用いて云うと、「天国と地獄との結婚」から生れた子供が人間なのだから、その腹の中では、神は悪魔によって立ち、悪魔は神によって養われる。二つのものはお互いに利用したり利用されたりしているのだ。そこで、この人間性の半面である神性が今では宗教信仰となって現われ、他の半面にある獣性悪魔性が征服欲勝利欲また争闘本能となっているのに不思議はない。そしてこの二つのものの野合の結果、経文と武器とは実は極めて仲の好いことを示す多くの恥ずべき事実を人類の歴史に曝露している。憲法というものが信教の自由を認めておかないと、信仰の相違のためには刃物三昧に及び、戦争や喧嘩までもやり兼ねないのが、末法濁世の浅ましさだ。十字軍をはじめとして欧州の歴史に絶間なきほど多かった宗教戦争は、食物の争奪すなわち領土主権の争いと宗教宣伝との緊密な関係あるがために行われた惨劇であった。かつて三百年のむかし、切支丹の教徒に向って、欧州史に見るのと同じ残忍なる迫害を加えて、同胞の中から多くの殉教者を出したものは日本人である。明治になってからも、田舎にキリスト教会の建物が出来ると、それに石を打っつけていた者どもの心理をおもえ。その潜在意識のかげには果して何があったか。

日本人の宗教信念とその偶像礼拝心とを、少くとも過去の時代においては、完全に支配し得た神社仏閣に、血で汚れた錆刀や大砲などの戦利品を麗々と飾らせた日本の政治家と軍閥とは、極めて聡明にして巧智な、そして深謀遠慮ある者であった。かれらはマホメットよりも清正よりも、またコンスタンティン大帝よりも遥かに巧妙なる煽動家であり、また野蛮なる戦闘者であった。今から十数年前、かくの如き巧妙なる方法によって、軍閥と民心とを永久につなぎ合そうとした某々宰相のごとき、もし彼らをして封建時代に生をけしめば、智勇兼備の名将はおろか、幕府三百年の覇業をはじめる位は、恐らく朝飯前であったろう。かれらは経典と武器とが、法衣と算盤そろばんとのごとく、また過去帳と春画とのごとく、極めて仲の好い物であることを、ちゃんと心得ていたからである。

いま改造の難行道を歩みつつある世界人心の不安動揺は、ただわずかに三つの差別あるに基く。詳しく云えば、この三つの差別あるがために生ずる反抗闘争を、何とかして解決すべく世界を挙げて努力しているのだ。まず第一には民族(或いは国家)の別より生ずる反争。第二には両性の差別より生ずる反争。第三には階級の差別に基く闘争。そしてこの三つの争闘のいずれにおいても、寺院教会の既成宗教はしばしば強者のために利用せられ得べき屈強の武器であることを、過去現在の事実が明かに証明している。いな、単に人間の肉体を征服する大砲よりも毒ガスよりも、既成宗教はしばしば精神的征服のための武器として、更に一層恐るべき精鋭強大なる悪魔の威力を発揮し得たのだ。甚しきに至っては、剣や鉄砲が全く用をなさないような闘争においてすらも、寺院教会の宗教のみは、征服者のために最も都合よき武器であった実例が極めて多い。

第一、民族闘争のために、宗教が、進軍の先頭に押し立て行く旗じるしとなり、手先であった例の極めて多いことは、既に上に述べた。いうまでもなく宗教信仰は人々の創造生活に属する問題であり、またひろく人類のためのものであって、その本来の性質から言えば、決して国境や民族の差別の上に立つものでない事はわかり切った話だ。インドの黒人が仏教を信じた如くに、吾ら日本人もまた同じ仏教を信じ、また日本人が敵国人と同じ宗教に帰依して随喜渇仰の涙を流したからとて、少しも不都合はないわけだ。もとより同じ仏教でありキリスト教でありながら、それが或る特殊の国土や民族の宗教となるとき、自然にその特殊な国家や民族の色彩を具備するに至ることも、おのずからなる現象としてとがむべきことではあるまい。ただそれが悪用せられることによって領土拡張の帝国主義の手先となり、資本主義的国家の擁護の武器となるとき、それは明かに宗教としての堕落であるのみならず、人類に与うる害悪もまた真に恐るべきものがある。

いま世界はこの第一の民族闘争の問題を解決すべく永久平和の大理想をかかげ、まずその最初の一歩を踏み出すべく、極めて姑息なる軍備縮小というがごとき手段を試みている。しかしたといこれを極度に完全に実現し得て軍備全廃の域に達しようとも、依然たる資本主義の経済戦をもってこれに代えるならば、結局人類の不幸はただその形を変化したまでで、世界平和の大理想は果敢なくも蹂躙せられるのだ。こういう時にこそ最も力をこめて、この大理想の実現のために尽し得るものは、本来国境や民族の上に超越して人心を支配し得る宗教そのものであらねばならぬ。然るに二十世紀の歴史上には、神に奉仕すべき宗教家みずからが、永久平和の大理想に向って貢献するどころか、むしろ悪魔の手先となってこれを蹂躙しつつ破壊している多くの事実を眼前に見るのは何としたものだろう。

わたくしはもとより英米の両国において、キリスト教徒が近世の平和運動のために尽すところ極めて多かった事実を認めるに躊躇するものではない。しかしそれは単に英米だけのことで、独仏露のごときに至っては甚しく無力なものであった。現に旧帝政時代のドイツは、自国をもって神の国なりと宣し、アフリカや極東に向って領土侵略の帝国主義を実現しようとするとき、キリスト教の神はいつもカイゼルという悪魔のために手先に使われた道具であり武器であった。はじめ膠州湾に土地を占領しようとする時、悪魔が抱蔵せる野心を満足せしむべき二人の宣教師は、まず山東地方に神の教を説いた。そして或る支那人の妻女を姦した。これがためにその宣教師が殺されたとき機は熟した。すなわちドイツのカトリック教会はこれに抗議する事によって、軍閥国家のために山東占領の好個の辞柄を拵えてやった。異教徒を教化してキリストの教によって救ってやろうという布教伝道の宣教師は、あれは実は身に寸鉄をだも帯びざる最も精鋭なる兵士ではなかったか。むかしインドを征服した英国がまず東インド会社という商売人によって侵略を行ったのはむしろ旧式だ。今日では算盤よりもまずさきにバイブルの方が侵略の武器として重宝がられている。

ドイツ皇帝カイザアかつBerlin から Buda-Pesth を経て Baghdad に至る三つのBを貫く鉄道敷設の悪魔的夢想をえがいて世界大戦のもとをなした。そのドイツが破れて、今度はまた同じ近東トルコあたりに連合国が馬鹿馬鹿しい惨劇をはじめた。エホバの神を信ずるキリスト教徒とアラアの神に仕うる回教徒との争いの歴史は古いが、二十世紀の今では、エホバもアラアも共に領土利権争奪者の看板に過ぎない。資本万能の帝国主義とアジアに対する民族的反感とは、キリスト教を旗じるしとして、実はメソポタミアの石油坑に垂涎し、バグダッド鉄道をねらっているのだ。更に一方またケマル・パシャの蛮勇に率いらるる回教徒に至っては、これはもう教祖以来、宗教と政策とをごっちゃにして悪魔の剣を振りまわすに慣れたる三億万の未開人だ。来るべき天国はおろか、いま眼前にインフェルノを現じつつある餓鬼畜生の争いである。

この争闘は単に国際間においてのみではない。同じ一国内ですら、英国のアイルランド問題のごとき、アルスタァを除いたアイルランドが聖パトリック以来、頑固な旧教徒であるがために、あの紛擾は半世紀にわたって、今になお砲火剣戟の争乱をさえ繰返すのだ。アイルランドの自治とか独立とかケルト人種だからとかいう問題ばかりに基くのではない。

わたくしは二十世紀の現代において、今なおくのごとき事例が無数に多い事を知るが故に、一々それを列挙し指摘するの煩を避ける。たださきに英米のキリスト教徒が平和運動に貢献するところ多かった事を云ったが、それについては、また別に、彼らが「右手のなすところを左手に知らせない」ような顔をして、われらのすぐ近くの朝鮮や支那内地などにおいて何事をなしつつあるやをも一顧しておく必要がある。すなわち今日世界における最大最盛の資本主義的国家である米国という国民的色彩の極めて濃厚なキリスト教宣教師が、その米臭紛々たるキリスト教をひっさげて朝鮮支那において何事をなしつつあるかを思え。かれらは彼らの後からついで来るべき自国の資本家のためにまず道を拓くべく、その民族的勢力扶殖のために、バイブルと祈祷とによって、砲弾や潜航艇以上の目ざましき悪魔的侵略力を発揮しつつある事実を見よ。聖書と祈祷とでも追付かないと見ると、幾多の美名のもとに今度は慈善病院をまで建てて民心を収攬する。さぞかしベタニヤのラザロのように、死んだ者までが生きかえる事であろう。経文と剣とを両手に持って行ったマホメットや、むかし南都北嶺の坊さんが僧兵となって悪鬼のごとくに戦った位はまだ無邪気であったが、現代の宣教師は、バイブルの外にまだ薬瓶をまで提げてその征服欲と勝利欲とを満たそうとするのだ。×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××

しかし英米のキリスト教徒の中には、とにもかくにも、 Peace at any price の極端説をさえも唱えて、国際平和の実現に努力したものは多かった。しかし幾千万の日本の仏教徒は、世界平和の大理想のために今まで果して何ものを貢献したか。××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。しかし永久平和と自由解脱の極楽浄土を西方十万億土の遠きにのみ求めずして、まずこの現世界の地上に建設すべく、たといわずかなりとも彼等は努力した覚えがありと云い得るか。

平和の神の教が民族闘争の具となるとき、血を見て喜ぶ悪魔の顔に浮べる会心のほほえみを見よ。

次には、第二の両性の差別から生ずる反争について、なるべく簡単に一言しよう。この第二の反争を解決すべく、いま婦人問題が世界の人心を悩ましている。元来がこの両性反争は決して砲火剣戟に訴うることのできない性質のものであるが、この場合においてすらも、寺院教会の既成宗教は、横暴なる男子専制のため、やはり絶好の武器となって役だつことを忘れはしなかった。また翻って考えると、遠い遠い過去において女性中心の社会が滅びてしまって以来、今日にいたるまで幾千年の間、男子はその暴力によって絶対的強者として女性を圧迫してこれに君臨し得たがゆえに、必ずしも他の武器を借るほどの必要もなく、安心して、たやすく女性を蹂躙し虐使し征服することを得た。従ってただわずかに布教伝道者の口を借って、婦人屈従の軽便な旗じるしだけを掲げておけば、それで充分に済むのであった。そしてその旗じるしというものが、やはり宗教から得たものであることは言うまでもない。しからばその旗印とは如何なるものぞ。

人間の腹の中に巣をくっている悪魔は、食物のための争闘本能ばかりでなく、今度はまた性欲という別の姿になって、更にその恐るべき猛悪兇暴の威力を発揮している。古代の原始宗教において、また今日の淫祠邪教において、この悪魔が神と握手し提携したとき、それは各種の生殖器崇拝教となり、また甚しきに至っては、おぐらき神殿のかげに、犠牲や供物くもつや救済という神の名において行われる司祭僧侶の婦女姦淫となって現われた。昔からすべての宗教学者、すべての性欲学者が説くところの宗教信仰と性欲との極めて密接なる関係については、今さら私のような門外漢がこれを繰返す必要もないであろう。実際、両性問題においては、神の名において立てる宗教は、その起源発達の歴史からして既に明かに悪魔の宗教たる立派な資格を具えていたのであった。

幼稚な宗教生活の心境は、まず自我の放棄において法悦の快感を喜ぶ事である。司祭や僧侶の手に導かれて祭壇の前にぬかづき合掌礼拝せるとき、多くの善男善女はたやすく自己のすべてを投げ出して忘我恍惚の境に入る。職業的宗教家である多くの妖僧や悪僧や怪僧は人心のこの虚に乗じ、心のゆるみに付け込んで、善男からは巧にお布施と称する財物を巻き上げるとおなじく、更に弱きが常なる女からは、その天地にもえがたき貞操をやすやすと事もなげに捧げしめた。地方まわりの説教僧が良家の処女や寡婦を姦するばかりではない。江戸時代の「蓮華往生」も、古代のエジプト、インドなどの神殿で普通に行われた「宗教的売淫」レリジァス・プロスティテュゥションも、またロシア帝政も末路、たくみにその宮廷貴族の女たちを誘惑していた怪僧ラスプウチンの魔力も、すべてみな同一の心理から解釈せらるべきことであった。××××××× ××××××××××××

学者が呼んで「宗教的売淫」と総称するものは、神を象徴し代表せる或る者によって婦女の貞操をけがす風習を謂うのである。これには色々の種類があって、たとえば、××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××、神の偶像を抱擁せしめるとかいう類のは甚だ多い。しかし最も普通でまた最も悪性なるものは、地上に神を代表せりという王侯もしくは僧侶が、自ら謂わゆる「活き仏」になりすまして、この恐るべき姦淫を行うことである。宗教家とか僧侶とかいう者に、今も昔も女たらしが多いのは、要するに悪魔と神とのこの握手提携だと思えば何も不思議はないのである。経文と春画とは昔から極めて仲の好いものであった。

この極端なる実例としては、たとえばバビロンのミリッタ崇拝 Milittacult のごとき、今日、常人のあたまでは到底考えられもせず信じられもしないような醜怪な風習が、かつて熱烈なる宗教信念を以て行われていたのであった。多くの「寺院売淫」テンプル・プロスティテュゥションdivine harem などもすべて皆おなじ意味のもので、東西古今にわたって少しも珍らしい話ではない。寺院には歌舞音曲をする無数の女が居て、恋愛の有無なぞはもとより問題外として、単に祭式として「不見転」の性交が行われる。参詣者はそれによって「浄め」られ、売淫の料金は「浄財」として寺院の収入となった。インドあたりの寺院の大規模なものには、千五百人ぐらいの女僧プリイステスがあって、それには良家の娘が少からず居た。みな幼時から寺院で特別な教育をうけて、国中で教育ある女といえば、恐らくこれらの巫女みこの外にはなかった位のもので、それがみなこの宗教的売淫を営むのであった。ギリシアのコリンスにあるアフロディテの神殿の売淫女僧の数は、一寺院だけでも一千人に達していたそうだ。その他、殿堂の境内で性交を許さない場合には、寺院の周囲においてこの種の売淫窟の非常に多いことは、現在の日本において観音の霊場とか何とかいう土地にこれと全く同一の魔窟が堂々として存在することによって、たやすく理解せられるであろう。近松や西鶴の作に出ている歌比丘尼という尼僧すがたの売淫婦もまたわが日本におけるこの実例の一つだ。またかの『十訓抄』や謡曲にある江口の女、普賢菩薩となって上天すという話は、実は普賢菩薩が性欲に悩める男子を救わんがためにしばらく遊女に化身していたというので、伝説としての意味は矢張り同じものだと解し得られるだろう。

かくの如き実例は枚挙にいとまがない。今さらエリス、ブロッホひもとき、或いはフレイザアの『黄金樹枝ゴオルドン・バウ』のごとき名著から受売りをすれば、古今東西にわたって際限がなかろうが、私にはそんな余暇はない。また以上のごとき幼稚な原始的な宗教でない場合に於ても、広く一般に宗教心理と性的心理との交渉については宗教学、性欲学、人類学のほか、また別に心理学の方面からも、たとえばジェームスの『宗教的経験』レリジアス・エクスピリエンスなぞのうちに論じられている通りだ。わたくしはなお更に進んで、今日の仏教とかキリスト教とかいう遥かに進化した宗教が、如何にしばしば男子専制、婦人征服のために好個の武器を提供し、有功な旗じるしであったかを指摘しよう。

××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××ように、古代宗教の婦女姦淫もまた、後に至っては色々な美名によってその形式を変えて進化した。教会は花嫁でキリストは花婿であると言ってみたり、尼さんや信心ぶかい処女のことを神の花嫁たちと言ってみたりするのは毫も珍らしくない。尼僧がはじめての得度式には花嫁の盛装をして神の祭壇にぬかづき、この神秘的なる結婚式によって永久にキリストの妻となるというのだ。性欲の悪魔がさまざまに姿を変えて仏智不思議となり、宗教的神秘説となるとともに、ローマ旧教の祭式ともなり、聖母崇拝マリエンクルツスともなったのだ。新教においてもまた、かのディクソンの著『精神的の女房たち』スピリチュアル・ワイブズに数えあげられたような奇怪な多くの現象を見るに至った。

宗教の進化は、やがてその女性観をして、幼稚な原始宗教とは全く正反対の観を呈するに至らしめた。即ち女人凌辱は、今度は逆転して女人崇拝となった。女子の生活の全部が男子性欲の対者としてのみ観られるとき、さきにこれに屈辱を与えていた者が、今度は更に悧巧になって、これを尊崇礼拝するに至ったのに不思議はない。つまり逆の手を執っただけで、男子と同様な人格を「人」としての婦人に認めない点において、根本精神は少しも異る所がないからだ。日本の仏教は階級的な、そして男尊女卑の孔子教を奉じた支那を通して伝来したのだから趣を異にするが、インドの仏教にはまず天を拝し地を拝し太陽を拝し、また女人を拝せよという思想が確かに存在した。しかしこの女人讃仰の極端なるものは、もとより中世キリスト教の聖母崇拝マリエンクルツスであることは言うまでもない。即ち聖母マリアによって現わされた「女性」を礼讃し渇仰することによって、そこに救いの神を見出したのであった。

さきに私は女性観の逆転といった。そして筆がはからずも聖母崇拝に及んだとき、悪魔の宗教の女性観が如何なる進化の経路を取って、今日の婦人侮辱思想となったかを語るべき好機を得た。

ローマ旧教で云うところの清浄受胎説イマキュレート・コンセプションは、何も西洋ばかりではない。日本の仏教にもいくらも有る。試みに『古今著聞集』の釈教の部を繙いて見ても、同じ様な救世主降誕説話はいくつも出ている。女が僧侶や偶像を夢みて孕むという類の話は、もしこれをさきに述べた僧侶の「宗教売淫」にあらずと見るならば、この清浄受胎説に帰するほかなきものではないか。たとえば、

御母の夢に、金色こんじきの僧きたりて「われ世を救う願あり、願くはしばらく御腹にやどらん、我は救世菩薩、家は西方にあり」といいて、おどりて口に入ると見たまいて、孕まれ給いつる所なり。——『古今著聞集』巻二。

性信二品親王は、三条院の末の御子。御母は小一条の大将濟時卿の女なり。むかし母后の御夢に、胡僧来りて、「母の胎に託せんと思う」と申しけり。その後懐妊したまいけり。——同上。

平等院僧正行尊は一条院の御孫、侍従宰相の子なり。母の夢に、中堂にまいりたりけるに、三尺の薬師如来を抱き奉ると見て、いくほども経ずして懐妊ありけり。——同上。

マリアの清浄受胎はプロテスタントの方では否定しているが、とにかく、亭主に覚えのない子供が出来たのならば、それがキリストだろうが、「×××××××××××××××××××」だろうが何だろうが、それはみな明らかに姦通によって生れ出でた私生児に相違ない。単性生殖 Parthenogenesis は、人類のごとき高等動物において、絶対に不可能な事はわかり切った話だ。東西の宗教家というものが両性関係についてくまでも馬鹿馬鹿しい苦しい言をなさなければならぬに至ったその動機を深く考えてみると、その裏面には婦人征服の宗教的な新しい旗じるしが、たやすく発見せられる。

進化と共に逆転して女人崇拝となった清浄受胎説の根本には、性欲の絶対拒否がある。正しい生殖行為をも否定し去ろうとする禁欲思想が、疑いもなくその根柢に存在する。ここに至って、悪魔は更に恐るべき新しき仮面をかぶった。すべての種類の宗教が、皆ことごとく或る程度の禁欲思想を主張せる明確なる事実あるを見よ。

婦人の人格をみとめずして、単にそれを横暴なる男子が自己の性欲満足と生殖作用の対象としてのみ見るとき、禁欲思想はやがて女人罪障の説となってあらわれた。すでに婦人の人格を認めないのだから、性欲の人格化、即ち私がさきに『近代の恋愛観』において反覆して説いたような恋愛は到底考えられない事になる。個性化されたる人格的な性的生活、即ち恋愛を、正しく認めて居ないのだから、いきおい荒淫乱行となるか、然らずんばこの不自然なる禁欲思想たらざるを得ないわけだ。すなわち女人という者から性的生活を全部引き抜いて、清浄受胎説という馬鹿げ切った虚偽を作り出し、これを礼讃していたのである。姦淫と禁欲と、凌辱と崇拝とは、婦人の人格を認めざる悪魔にとって、両方ともに、極めて都合のよい旗じるしであったのだ。すべての両極端は相等しい。原始宗教の婦女姦淫も、進化した宗教の禁欲生活も、外面は正反対だと見えながら、実は全く同一物に外ならないのである。

禁欲主義に立てる昔からの高僧の多くは、強烈なる情欲の人であった。聖僧と云われる人たちの顔を見るとき、私はしばしば悪魔的な性欲犯罪者をさえも連想する。また僧侶に限らず、すべての禁欲的傾向の思想家は、強い性欲のために自分がひどく苦しんだ体験ある人か、或いはかつVoluptas の生活に溺れた人で、これは現にトルストイなぞの自らの告白によって明らかに知られる。(ことわって置くが、私は決してこれを悪いと云うのではない。藝術なぞも矢張り性欲の転化で、私はロダンがアトリエでの仕事服を着た写真を見て、あの淫蕩の怪僧ラスプウチンを想い出した事すらあった)。

筆が思わず横道にそれたが、この禁欲思想はまず初代のキリスト教においてパウロの教えであったことは人の知る通りだ。その婦人に対する教訓に云う、

つまなる者よ、主にしたがうが如く己れの夫に服うべし。そはキリストが教会のかしらなる如く、夫はつまかしらなればなり。キリストは身の救主なり。されば教会のキリストに服うごとく、婦もすべてのこと夫に服うべし」——エフェソ書五、二十二—二十四。

亭主を活き仏か神の化身だと思えと云うのだから、この婦人圧迫は日本の夫唱婦随説どころの騒ぎではないと思う。もとより私はこれを以て古代の僧侶が、自ら活き仏となり救い主となって婦人を姦し、或いは犠牲として神前に女を献げたのと同一視するものではないが。

しかし禁欲思想によって、キリスト教が真に婦人征服の完全なる武器となるに至ったのは、言うまでもなく中世紀においてである。男子専制の思想は、婦人をおのが性的生活の対象たる奴隷としてのみ見るが故に、性欲を否定すると共に、女人を以て一切の罪悪の素因なりと見なし、人生の魔障なりとしてこれを侮蔑した。(同一の中世時代においてすら女人崇拝の他の半面にこの反対現象を見る事は、既に上にも述べた通り、自然なことではあるが、また興味ある事実だ)。ラテン語の女 Femina の語は「信仰なきもの」を意味し、女性は永久に呪われたる者として、さげすまれた。そこで横暴な男子が考え出した極めて面白い、そしてまた婦人侮辱思想の極度を示した有名な一つの旗じるしが出来た。それは即ち中世の「妖女の術ウィッチクラフト」である。

妖女ウィッチという思想は必ずしも中世キリスト教の創始なりとは限らない、世界いたる所に類例がある。即ち男子が自分の性欲の抑制すべからざる不思議の威力を一種の魔法だと信じ、その魔法を相手の女になすり付けてしまったのだ。即ち女人は魔ものであって、この妖術を行使する者だといたのであった。ドイツ語の妖女ウィッチに当る言葉は Hexe だが、その語源は、 Hagat 即ち「流浪の女」の意であった。すべての女人は、ここに至って遂に悪魔そのものだと考えられた。今日の吾々われわれから考えると児戯に類した思想ではあるが、この旗印は近代に到るまで非常に頑固な迷信となって、欧州の人心を支配し得たのであった。(古代の宗教売淫の場合は、つまり性欲満足によって、この魔もの——仏教で云う陰魔——を払う事を得るが故に、それを救済だと思い、宗教的法悦の三昧境だと感じたのであった。)

キリスト教神話にいうエバが智慧の木の実(即ち性的智識)を味わってから、人間は堕落して神の楽園を追われた。一切の性的生活は罪悪だと云うところから、かの原罪オリジナル・シンの説は生れた。清浄受胎などということも畢竟するに、この原罪なるものを女人から無理に抽出しようとして出来た説話に過ぎない。かりに禁欲思想を正しとしても、そしてまた性欲を以て魔障なり陰魔おんまなり罪業なりと見るとしても、性欲生活は男子も女子もお互様の事なるが故に、婦人のみがこの禁欲思想の結果として侮辱を受ける謂われは、寸毫だもあり得ないわけだ。女人よりもむしろ性欲熾盛なるが常なる男性、ことに破戒僧などこそ、罪業の権化だと言われなければなるまい。

禁欲主義の仏教が同じくまたこの旗じるしを用いて、婦人征服の武器としている事は、もとより言を俟たない。高野の山は長い間女人禁制であり、説教僧はいつも壇上から、女子に五障三碍ありと言って、今日なお参詣の婦女に向って甚しき侮辱を与えている。禁欲の宗教としては極めて寛容の態度をとれる念仏宗においてさえ、その『浄土和讃』の一首に云う、

弥陀の名願によらざれば、
百千万劫すぐれども
いつつのさわり離れねば、
女身をいかでか転ずべき。

古来宗教家は、さながら変態性欲病者のサディズムのごとくに、東西ともに女をいじめることによって自瀆的快感を貪ったのだ。女は虐められながらも、外ならぬ往生成仏の一大事で、「百千万劫すぐれども」救われないぞよと云って、活き仏をよそおう僧の口からこの猛烈なる威嚇を受くるに至っては、婦人たるもの長い間文句は言えなかったのである。宗教の悪魔的威力もまた偉大なるかな。この点においては、軍閥的国家擁護の悪魔の剣としてよりも、それが人生の根本問題である罪悪観などを利用しているだけに、一層また有力な旗じるしであった。

犯罪者のなかに、心から宗教信仰深きものを見ること稀ではないという事実を、犯罪学者は指摘しているが、以上わたくしが述べた宗教の性的暗黒面を見ただけでも、這般の消息は容易に理解せられるであろう。既に余りに長きに失したこの一節を終るに先だって、私がさきに世に公けにした『近代の恋愛観』について、ついでながらここに一言しておこう。

自覚ある個人がその性的生活を強く個性化したものが恋愛である。それは云うまでもなく個人としての対等の人格を基礎としている。ところが婦人を男子よりも一段と下等なものにして、恋愛なき凌辱的、不見転結婚をも神聖なりとし、正義なりとするためにはさしあたり宗教の悪魔的威力を借る事は最も都合がよい。古代の寺院売淫なぞは全然恋愛を無視して相手構わずに「神聖なる」性交が行われたのだ。支那の方では立派な宗教になっていた孔子教の祖先崇拝、階級差別の教を日本化したる家族主義の信仰が、いかに多く、この人格的なる恋愛結婚妨害の利器として役立っているかを思え。×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。ちょうど古代宗教が結婚式に際してまず王侯とか僧侶とか家長とかに「初夜の権」 Jus primae noctis を与えて、処女の神聖を奪わしめたと同じく、今ではその Defloration が見ず知らずの新郎によって行われるというだけの違いだ。生蛮せいばんの生首が勲章に進化したように、形だけは少し高尚になっても、根本精神は変化していないのである。すべての不合理を合理的に見せかけ、醜穢なる蛮行を神聖にして道徳的なるかの如くに誤魔化すために、宗教もしくはそれに類似したる一種の信仰は、常に至便最良の仮面を提供する。

第三の差別に基く反争は即ち階級闘争だ。この争いにおいて、伝来の誤れる既成宗教や寺院教会が、貴族、資本家などすべての特権階級のために、今も昔も、いかに巧みに悪魔の爪牙そうがとなって御用を勤めつつあるかに言及しよう。東洋では余り言わないことだが、西洋にはちゃんと僧術 (priestcraft) という言葉まで出来ている。その意味する所の内容は主として、この第三の点において宗教家が有する魔力を指すのである。

すべて強者の専制横暴は、宗教の魔力を借らずしては行われ難いものだ。昔から多くの暴君や専横の貴族は、この理由のために必ずまず寺院僧侶を保護した。神とか仏とか寺院とか教会とか何とかいう偶像を背後にして僧侶が物を言うとき、理屈なしに人はこうべをうな垂れ易いからだ。嘗て宗教家の言説に不思議な一種の感化力があり、魔力があると思われたのは、実にその背後に光を放てる偶像の蠱惑こわくであり権威であったのだ。さながら魔法使いマジシァンヲンドのごとく、意のままに容易たやすく弱者を左右し得る点において、御用学者や道学先生の言論よりも遥かに有力なる平和の武器であったのだ。護摩壇の前に合掌礼拝するとき、人はいつもの自己を放棄してエクスタシイの心境に入る。つまり一種の催眠ヒプノティズムにかかれるその虚に乗じて、魔王の黒き手は易々として彼を動かすのである。さながら電車のなかで何かに見とれているひまに財布をられるように。

私は今さら中世のローマ教会と法王の教権とが如何に恐るべく偉大なものであったかを繰返すの煩を避けよう。またフランス革命以前の貴族と僧侶との関係などを挙げて、専制の怪力としての宗教が、東西の歴史の上に如何にしばしば巨大なる暗影を投じたかをも言わないであろう。ただここにまだごく新しい事実として、ロシア専制政治崩壊前におけるギリシア教会の偉力を見よと言おう。かのロマノフ王家の虐政は教会の神秘的威力を唯一最大の武器とすることによって、はじめて行われ得たのであった。教会の議決命令信条は直ちに神の宣言として、救世主の名において行われるが故に、すべての modus は言うまでもなく、政教いずれの方面においても、その絶対の命令には必ず絶対の服従が要求せられた。露国のギリシア教会は一億万に近き民衆を信徒としたが故に、傲然として帝都に君臨せる大魔王のごときそのシノッド(総本山)は、常にあの尨大なるザアの帝国を、意のままに左右し得たのであった。一世の大思想家トルストイもこれがために破門せられた。信仰の人ドストイェフスキイが、シベリアの曠野こうや流竄るざん幽囚ゆうしゅうの身となって、『死人の家』に描いたような惨憺たる迫害をうけた志士は、数知れず多かった。ラスプウチンに劣るまじき幾百幾千の怪僧と妖僧と俗僧の魔の手によって、遂に今の赤色のロシアを生むべき素因が、過去半世紀の間に醸成せられたという戦慄すべき事実を回顧せよ。神の救い、仏の慈悲の名において働き得る魔王の宗教的威力は、何も遠く時代を隔てた昔の歴史談のみではない。

人或いは云うだろう、それは旧帝政ロシアの特別の国情によるのだ、英米その他の諸国においては然らずと。それならば再び思え、今日いずれの国においても、その寺院教会あるいは青年会や救世軍のごとき凡ての宗教団体が、果して何人の資力によって維持せられつつあるかを。詳しく言えば、幾千万の宣教師僧侶というものが精神的にも肉体的にも何等の苦しい労働に服せず、ただアーメンを唱え木魚をたたく事によって、金襴の袈裟法衣を纏うてやすやすと生活し得るのは、主として何人の資金によってであるか。あの巍々ぎぎとして雲表に聳ゆる大伽藍大殿堂におさまって、数奇をこらした庭園を控えた書院の一室に閑日月を送れる僧侶は、その衣食の資を主として如何なる階級に仰ぎつつあるかを思え。もとより吾々のような貧乏人の金をも、多少は捲き上げているに相違ないが、そんなのはまず貧乏寺か然らずんば謂わゆる貧者の一灯で、もとより言うにも足らない。その維持資金の大部分が支配階級資本家大地主などの寄進であり寄附であることは今さら言うまでもない事実だ。

米国は世界における最大の資本家国であり、また寺院教会の最も富有な国だが、その国でのまた最大の資本家の一人であるロックフェラァの爺さんが今年八十幾つかになるまで、写真というものを嫌って滅多に写させた事がなかった。——私はこの話を、つい前週に或る外国雑誌で読んだのだが——そこで或る新聞記者が、無理にでも写真をとらせてくれと頼むと、翁は遂にこれを諾した。然しそれには一つの条件があった。お前さんが来月まで、毎日曜には欠かさずに私の行く教会へお参りするなら、そのあとで写させてやる。記者は遂にその言の通りにしてこの写真を得たと云って、皺くちゃの爺さんの顔が写真版になって出ていた。如何にも、これなぞは日本でも資本家の御隠居さんの云いそうな事だが、その教会がまたロックフェラァ家の巨万の大寄附金によって維持せられていることはいうまでもなかろう。またかの支那朝鮮の内地などへバイブルと医療器械とを提げて行って、資本主義的国家大発展に資しつつある多くの宣教師も、これら資本家の財源によって派遣せられていることも言を要しないのである。

米国とちがって日本のように古い歴史を有する国では、今日なお寺院が幾百年前から支配階級によって与えられ保護せられた鞏固きょうこな基礎の上に立ち、その或る種のもののごときに至っては既に巨万の世襲財産を擁して、僧侶みずから既に立派な御前様であり貴族でありブルヂョアである。従って事柄は更に明瞭だ。

多年うまい金儲けをして身は大資本家となって貴族に列せられる頃には、引退して何食わぬ顔で今さら論語なぞを説いて廻った男があった。それも長年の罪滅ぼしには誠に結構であるが、多年の搾取によって積み得た巨万の財を寺院に寄進して、新聞記者にお寺参りを強要するアメリカの御隠居さんとは実に好一対の者であろう。わたくしは経済学について何らの知る所はないが、陶朱とうしゅ猗頓いとんをしのぐ資本家のあの私有財産が、もし第四階級からの搾取によって成立する不浄の財なりとするならば、寺院や教会に寄附せられている浄財というものの大部分が、如何なる罪悪の罪滅ぼしであるか、また如何なる性質来歴のものであるかは、民衆の一考に値いするではないか。極めて無遠慮に云えば、さきに述べた原始宗教における「寺院売淫」の売淫料と軒輊けんちする所なき不浄の「浄財」ではないか、汚財ではないか。

ここに至って私の念頭に浮ぶものは、バアナアド・ショウの傑作である三幕物の戯曲『バアバラ少佐』である。作者一流の辛辣痛烈を極めた皮肉を以て、世界最大の軍器製造業者アンダアシャフトをして、資本家一流の奇怪至極な人生観社会観を語らしめ、この人殺しの武具製造者の娘バアバラをして、救世軍という宗教団体の一士官たらしめ、これに点ずるにバアバラの恋人であるギリシア語の教授プロフェサアや、「神様に救われなくたって好いから、早く俺の情婦いろを返せ」と言って救世軍に怒鳴り込むビルという若者や、救われるとまた直ぐに救世軍で金を盗むプライスや、その他色々の人物を配合して、巧みに現代の宗教団体と階級闘争との関係を深く突込んで描き出し、今日の社会問題について色々考えさせる作品である。その二幕目の終に近い所に、救世軍が貧民救済の事業資金に窮して、二大富豪から一万ポンドを受取る話がある。半分はボッヂャアといって、これは泥酔という害悪を世に広める大酒造業者、さきにヘイキントンのお寺を再建した功労によって男爵に叙せられた資本家から得られた。あとの半分は即ち軍器製造業者アンダアシャフトの寄附金で、色々の殺人機械を造って神の平和を破壊する悪魔が、労働者を搾取することによって儲けた金だ。作者ショウはこの問題に関して、例によって長たらしいその序文の一節において言う、

「富人の施物分配者としての宗教団体は、圧迫者補助のようなものだ。石炭や毛布やパンや砂糖水で『貧乏』の謀叛的な鋒先ほこさきを取り払い、来世においては広大無辺の幸福が得られるという希望を与えておいて、犠牲者を元気づける。その時はもう貧乏人が、ちゃんと富人の御用を勤めて早死する段取りがこれで完了している時なのだ」(同書178頁)

すべての宗教団体が、現世においては社会事業のために尽し、未来においては極楽浄土や天国に導くという救いの仕事は、実に無産者の血と汗とを搾取して得られた資本家や貴族などの財嚢から出ている。そこでこの宗教家たちは果して如何なる言を以て、その謂わゆる難有ありがたい御説教なるものをしているのか、彼らの言動がややもすれば軍閥的帝国主義的国家の擁護となり、男子横暴の五障三碍の説となりつつあることは既に上に述べた。この階級闘争の問題については果してどうであろうか。

私は平素寺院の説教なぞを聴くような機会はない。しかし、ついこのあいだ、ふと茶の間に転がっていた『婦人』という雑誌を取って何心なく中をのぞくと、巻頭に大本山と関係浅からざる或る貴族の夫人で、いつも仏教婦人会というものを主宰したりする人の説教めいた物を見た。その中には下のごとき言がある。

階級闘争という事につきましても、仏教の教理が因果の原則の上に立って居ることから理解させて頂きますと、世間のすべてはみな各自の惑業のあらわれであって、自己の業果によって自縄自縛せられ、どうしても因果を自身で左右することはできないのみならず、善因善果ということもその人の業果なのです。この世において正直に勤勉しながら、なお不運であったり、不義のものがかえって幸運であったり、到底現在一世では説明のできない矛盾も三世因果の法から容易たやすく信ぜられますし、また現世の果報の中には過去世の業のあらわれもある。現在の業が現在に生ぜず、未来において果を引くものもありましょう。この矛盾も三世にわたって考えれば、因果の法のあらわれに外ならないのだとも思います。大無量寿経に「善人善を行じて楽より楽に入り、明きより明きに入り、悪人は悪を行じて苦より苦に入り、くらきより冥きに入る」とのお示しは誰にも了解のできる自明の理なのです。無差別に、平等に、とねがうことは人間の欲求として無理からぬことで御座いますが、但しここに因果の理の必然として有産無産、貴賤の区別が自ら出来るように考えられます

これは貴婦人レディの言だから特に敬意を表して私は批評を慎むが、とにかくその主意は、俗にいう「因果をふくめて」である。「貧乏するのは天罰だ、罰あたりめが」ということである。諦めろというのである。特権階級にとってはこれよりも都合のよい説はない。村の坊主が檀家の地主から布施を貰い、庫裡の修繕費を寄附させて、小作人に向って言って聞かせる説教も、恐らくはこれと異曲同巧のものであろう。お救いによって来世は極楽に行けるぞとうまいことを云って、人を現世の阿鼻地獄に投じておく者の言葉として極めて適切なるものではなかろうか。オオマァ・カイヤアムの歌の詞を借りて言うと、今の無産者は来世なぞという遠い所の太鼓の音などには耳を仮して居ない。現世の現なまを取れという。来世の信用貸などはお断りだというのだ。それでなければ救われないのである。また彼ら仏教者はしばしば「平等」に「悪」の字をまで付けて、さも憎さげに「悪平等」という。そして、差別観の上に立てる平等観でなければ駄目だというが、なるほど詭弁的な空疎な思想遊戯としてはそういうことも立派に言えるであろう。しかし今日のように息苦しい行詰った生活をしている吾等にとっては差別の上に立つ平等という、まるで跛の下駄を穿いたような平等では承知ができないのである。大乗仏教は、あの古代インドでやかましかった四姓の差別をすらも撤して説かれたものではないか。お救いで極楽往生をする時にも、五濁悪世の悲しさは寄進の浄財の額によって、白切符と青切符との差別があるのだろうか。ちょうど坊さんの読経の度数と時間とが、布施の金額によって異るがごとくに。

また職業的宗教家の或る者はいう、聖者の説ける同朋主義、平等無差別観は、宗教生活の法悦において体験せらるべきもので、大乗仏教のこの所説は社会改造問題に持出すには余りに貴きに過ぐと。なるほどそうかもしれない。しかしもしその通りならば——即ち宗教生活と社会問題とを峻別することが正しいというならば、今日何が故に仏教家は自ら進んで社会事業なるものに手出しをするのであるか。何の必要あって何の理由あって、

かくのごとき決議案をまで提出するのであるか。それは明かに頭と尻尾しっぽとで物を言う悪魔の胡麻化しではないか。私は宗教家が社会事業に干与かんよする事を正しと信ずる。そして飽くまでその同朋主義と平等無差別の宗教観を、人間の全生活の上に徹底せしむべく努力し高唱してこそ、宗教家の宗教家らしさはあるのだと思う。吾々に宗教生活と社会生活との二重の生活があるのではない。そこにはただ一つの人間生活があり、ただ一つの生命の躍動があるのみだ。これを無理にも二つに峻別して説こうとするのは、例の悪魔の財源……もう言わなくても解ってるだろう。

人々はいま生活の痛苦に悶え、魂の飢えに泣いている。かくて救いを求めんとするに急なる人心の虚に乗じて、怪しげなる因果を説き、消極的な諦めをすすめて、資本家や特権階級の温情主義の手先となるがごときは、決して真の宗教家の天職ではあるまい。それは飢えたる鼠に与うるに猫イラズの饅頭を以てする悪魔のわざではないか。

或る所で市区改正をして電車のために道路を拡げた。そこにはかなり大きな寺院があって、境内には勿論空地もあった。電車道路のためにその一部を取払おうとすると、寺僧は頑然傲然としてこれを峻拒した。曰く、当山は何とやら家という貴族の菩提所だと。やむを得ず、その寺と反対の側の十数軒の小さき民家は取払われて、電車線路は迂曲する外なかった。悪魔の殿堂の威力は恐ろしい。

以上は主として日本の現状について云ったのだが、西洋の方を見ると、中世修道院の孤独の宗教が、文藝復興期以後全く面目を一新するに至って、宗教の社会性ということが著るしく強調せられるに至った。特に近代に至ってはオウエンやサン・シモン等の宗教的な社会改造論が最初の刺戟となって、宗教は社会運動と結び、前世紀中葉のキングスレィ、モオリス等のキリスト教社会主義ともなった。もとよりそれは長続きはしなかったが、ラスキンやカアライルの社会論もまたこの系統に属するものであった。特に英米で今日宗教家の社会事業の盛んなのも、当時の影響だと見られ得る。ただしマルクスやラッサアルの感化が強くなるに従って、キリスト教の博愛人道主義的の社会改良論は勢力を失墜したことは疑われない。特にまた宗教家には東西ともに固陋な人が多くて、今もなお、現世において人は各々その分に安んぜよ、やがて来世に天国は到らむなどと説くので、一般から云えばキリスト教はややもすれば労働階級の強い反感憎悪の的となっている。しかしこの点では日本の念仏宗の人たちが今なお因果説や偏狭の差別論を持出すのと違って、西洋のキリスト教は確かに一歩進み出している。即ち神の王国は天国ではない、現在のこの地上にキリストの精神が支配するのだと説き、神を現世と離さないで考える謂わゆる内在インマネンスの説に重きを置いているがごときはそれだ。

ついでながら近ごろ、日本で僧侶の力によって「思想善導」を図るという話を聞いた。今の日本の仏教界に果してその人があるや否やを私は知らない。説の可否は別として、現代英国思想界一方の雄たるイング僧正のごとき学徳たかき人が果して居るのだろうか。

人間が生きるということは、そこに何らかの信仰があり要求があり理想があるからだ。すべてこれらを否定すと言いながらなお生を貪ぼる者あらば、そは虚偽の徒にあらずんば則ち畜生だ。人間らしき信仰、人間らしき要求、人間らしき理想の全部を否定し去るとき、そこには「死」よりほかに歩むべき道は有り得ないはずだからである。近頃日本文壇の作家の一部に怪しげな虚無思想の流れを見るようだが、あれなぞは自分が生きんとする努力の足りない結果、極めて浅薄なる自暴自棄に陥った絶望を、売文の商売道具に使っただけのものとしきゃ考えられない。少しく酷評すれば、損をした株屋のやけくそ生活と何ら選ぶところなきものである。真のすぐれた思想家藝術家には、たといそれが虚無主義の人であるかのごとくに見えていても、そこには常に何らかの理想と信念の閃きがあった。普通に虚無思想家だと思われているツルゲエネフは、あれは実は一種の夢想家であったのだ。また絶望厭生の破壊思想を噴火山の爆発のように十九世紀の思想界に投げだした最初の第一人者バイロンさえ、今日から思えば、「自由」という理想を棄ててはいなかったのだ。ただツルゲエネフやバイロンにおいては、この理想と信念とが余りに夢幻的であり空漠たるものであったというに過ぎない。

私は斯くのごとき意味において、また常に、肉より霊へ、物より心へ、常識より神秘へ、有限より無限へとあこがれることが、人間のとうとき本性であることを信ずるが故に、宗教そのものの意義と存在とを飽くまでも強く肯定するものである。ただその信仰とあこがれと理想とが、空疎なる概念や、死せる偶像であってはならないというのだ。この信仰、この理想は、飽くまでも生命の烈火に燃ゆる人生の藝術であり人生の宗教であらねばならぬと考えるのである。かの前世紀の多くの唯物論の徒や、或いはニイチェ、バアナアド・ショウなどの口吻を学んで宗教そのものを否定し攻撃するが如きは、根本において人間性の貴とさを侮辱したる謬見だと思う。それは確かに人間冒瀆である。

わたくしはキリストによって仏陀によって説かれたる宗教が、その本質において天地と共に偉大であり、日月と共に永久であることを十分に承知している。毫もそれを疑うものではない (支那においては宗教となっていた孔子教という祖先崇拝教は、宗教として全然無価値なものだとは思うが)。ただ私の言わんと欲する所は、既成の寺院宗教の偶像化、功利化を飽くまでも排撃したいと思うのである。生命なき囚われたる既成宗教が賤劣なる妖僧俗僧の魔手に弄ばれ、巧みに利用せられ悪用せられるとき、大魔王の恐ろしき毒手が、神壇の背後に動きつつある実際の事実を見よと言うのだ。今日いかに多くの憎むべき罪悪が、胸に十字をかけたる黒衣の人や、活き仏を粧える円頂緇衣えんちょうしいの徒によって、白昼公々然として、神のおん名において、仏の称名しょうみょうによって行われつつあるかを見よと言うのだ。幾百年幾千年の長い歴史によって穢された帝国主義的国家擁護の宗教、婦人抑圧の宗教、特権階級の走狗となりおわれる宗教を葬り去って、自由清新の溌溂たる生命の熱に燃ゆる宗教たらしめよと求めるのである。寺院教会のうちに「囚われたる宗教」をまず野に放って、真に人間のものとせよ、民衆の手に返せよと呼びたいのである。

神や仏が寺院教会に在りとのみ思うのが根本の誤謬だ。信仰は人間の個性の表現であり、生命の創造である。詩人実朝の言葉を借りて云えば、「神といい仏というも世の中の人のこころの外のものかは」(『金槐集』雑部)。たといトルストイは国教たるギリシア教会から破門せられても、また愛国心と宗教との野合に力づよく反対したにしても、彼が近世における最大のキリスト者であったことを疑うことはできまい。革命詩人シェリイは無神論者であったと普通に言われるが、その大作『解縛のアンバウンドプロメシアス』を読むと、彼が囚われたる教会の神を否定していた他の半面において、「放たれたる神」には燃ゆるがごとき熱烈の信仰を有っていたことが明かに知られるではないか。

既成の寺院の宗教は、たといそれが俗僧の手によって悪用せられないまでも、多年の歴史的因習の結果、それ自らのうちに既に多くの迷信と偏見とを包蔵し、殊に私が現代生活における新理想主義の三つの標識として掲げた (一)世界平和 (二)恋愛至上主義による男女関係の更新 (三)階級打破の新社会を求むる思想 (詳しくは改造社より近刊の拙著『近代の恋愛観』105–114頁を参照せられたい) と背反せること著るしきは、上来述べ来った通りの有様だ。今もなお昔ながらの極めて偏狭固陋なる差別観の上に立ち、過去の時代の多くの謬見迷妄に煩わさるるが故に、既成宗教が今や既に自縄自縛の窮地に瀕しつつあることは否定すべからざる事実である。

「行きて諸国の民に教えよ」というマタイ伝の結語を見て、わたくしは神々こうごうしいと思う。民心を化導して弥陀の心光に浴せしめ、街頭に教を説いて衆生済度の使命を果たそうとする宣教伝道の大業が、心きよく徳たかき聖僧によってなされる時、わたくしはそれを貴しとも難有ありがたしとも思う。それを何事ぞ、濁世末代の俗僧が、有縁うえんを度すと称しながら、実は私腹を肥し、資本主義の害毒を大いならしめ、婦人を侮辱し、あまつさえ軍閥の爪牙となって国際平和をまで妨ぐるがごときに至っては、誰かこれを悪魔の伝道にあらずと云い得るものぞ。皎々たる満月にさえ、いつも暗い半面があるように、仏陀やキリストのとうとき教の半面にも、黒い魔王の影は潜み易い。

キリストはいう、「ああわざわいなるかな、……爾等なんじらあまねく水陸を経めぐり、一人をもおのが宗旨に引き入れんとす。既に引き入るればこれを爾等よりも倍したる地獄の子となせり」。今の世の布教伝道者、まずこの言葉を聞いて如何の感ありやと問いたい。

友人の紹介名刺を持って来て玄関に面会を求める男がある。会ってみると保険会社の勧誘員で、かれは滔々と保険の功徳を説き立てる。あなたのお為ですからと云うが、実は彼自身の会社の利益配当を一銭でも多くしたいからだ。保険は私のために加入するのだから、私が求める時私から申し込む。保険の押売はお断りすると云って、私はハイカラな服装をしたその勧誘員を追返してしまった。

今の寺院教会の布教僧宣教師と、この保険の勧誘員と果してどれだけの違いがあるだろうか。各宗各派は何の必要あって布教伝道の競争なぞをするのか。その競争する心には、各保険会社の勧誘員が悪辣を極めた競争をすると同じく、寺院の収入と勢力とを少しでも大きくしたいという職業的争闘根性が毫も無いと言えるだろうか。これは独り異れる宗旨宗派の間においてのみならず、同一宗派内においても、僧侶や宣教師ぐらい勢力争いや欲得づくの野卑な喧嘩をするものは無いと思う。いやしくも宗教家の仮面をかぶれる以上、今の政治屋や実業家のように露骨な悪事が働けないために、彼ら職業的宗教家は驚くべく陰険な狡猾な手段をもって仲間の喧嘩なぞを事としている。習い性となっては、おのずからその人相顔面にも現れるのであろう。多くの俗僧や宣教師の顔や目つきを見よ。おのずから老獪陰険の色あらわれて、容易に近づくべからざる者も決して稀ではないのである。いずれの道を踏んで行っても、救いの山の頂にのぼれば、同じ真如の月は見られる。是非おれの示すこの道を通って登れと言わずとも、また強いて茶店の婆が客を呼ぶような真似はしなくても、神や仏の使徒となって衆生済度の使命を果すことは立派にできるではないか。それを無理にも押売りの態度で大挙伝道だの何だのと騒ぎ立てるのは、あれは悪魔の軍隊の一斉射撃だろう。そんな卑しい真似をしてまでも自己の寺院教会を大きくしたければ、一層あの保険会社と同じく株式組織の会社に改めたらどうだ。資本金一億万円とやらを募集して基礎を固め、何々宗伝道株式会社、配当幾割と云う方が、無邪気なだけに悪魔的分子は遥かに少くて好い。その株式も宗教の事だから、綿糸のように暴落はすまい。また殊に資本家の味方になって因果を説いたりするにも徹底してかえって便利であろう。

むかしミルトンが『失楽園』に描いた大魔王セイタンは神様を向うにまわして壮烈な大喧嘩をやっているが、二十世紀の悪魔はそんなまずい事はしない。ちゃんと神様を道具に使って、大昔の僧侶が「寺院姦淫」をやる時、女の身に神を宿してやるのだと云ったと同じく、巧みに善男善女を操って、慈悲や救済を名として、今の腐敗せる既成政党にも劣るまじき悪事をさえ働いている。そうして既成政党が自らの悪事によって自らの滅亡を早めつつあると同じく、既成宗教もまた、自ら「悔い改め」ざるかぎりは、自滅の外なきものではなかろうか。

求めよ、然らば与えられんと云う。今は人々が心の生活に飢えて、求むること日にますます切なるの時である。しかるに寺院や教会は「パンの代りに石や、魚の代りに蛇」どころの騒ぎではない。猫イラズの饅頭にも似たる悪魔の残飯を与うるほか、理想たかき現代の新人に与うべき清新なる何物をも提供して居ないではないか。職業的宗教家みずからにさえ偽らざる確固たる信仰が無いのではないか。

今はすべてのものが皆新しき内容と形式とを得べく努力している。その今日において、少くとも日本だけで云えば、一番時勢の進運に後れているものは、まず遊廓と寺院とであろう。二つのものは昔から仲が好い。

旧信仰の廃墟が今すでに悪魔の殿堂と化しつつあるを見よ。いつまでもそのおぐらき須弥壇のかげに、消えなんとする明滅の燭光を仰がんよりは、人々よ、まず自らの心の聖殿に、新たなる生命に燃ゆる信仰の霊火を点ぜよ。

初出: 『改造』 大正11年11月号2〜28頁。 上掲本文は初出版を底本にし、 『厨川白村集 第五卷 戀愛觀と宗教觀』 (大正14年 厨川白村集刊行會発行) 339〜387頁所収のテキストに拠って補訂した。 本論文は他に 『厨川白村全集 第三卷 文学評論』 (昭和4年 改造社発行) 215〜251頁にも再録されている。

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