悪魔の宗教
厨川白村
“Divinity of hell!”
— Shakespeare, Othello II. iii. 362.
一
神の宗教があるごとくに悪魔の宗教がある。そして神と悪魔との中間に人間が在る。西洋の中世伝説では、人間はしばしば自分の魂を悪魔に売付けているが、いつの世にも、知識や恋愛や真理や財物を悪魔に捧げている人間は甚だ多い。しかしそれらは、人間が自分のものを悪魔に提供したり売付けたりしているのだから、まだ罪が浅い。彼等がいつのまにか神様の物をまで持出して、悪魔の手に渡すに至っては、真に沙汰の限りである。いま宗教について、そんな事実は無いと云えるだろうか。もともと神の使徒たるべき宗教家が、いつのまにか悪魔の伝道者になり、神の宗教を悪魔の宗教にしたりしている事実は無かろうか。神の御手にあったはずの慈悲の教が、いつしか大魔王の毒手に握られた
わたくしはまず神殿のなかに悪魔を見出だした話から始めよう。
二
二三年前の夏、はじめて私は東北地方へ行った。講演という野暮用のために引きずり出されて、『奥の細道』とは似ても似つかぬ殺風景な旅をした。仙台、石の巻あたりをうろつく時、案内の人がわたくしを松島の瑞巖寺とかへ連れて行ってくれた。すべての名所見物をうるさがる私にとっては、それが仙台侯の菩提所であろうが何であろうが更に用事はないので、ちょっと門の所まで行って
しかし不快に思ったのは、私の方が間違っていたのかもしれない。経典と武器、宗教と征服とは、歴史上の事実としては実に兄弟分なのである。ごく仲のよい隣同志なのである。それはちょうど、寺院の法要と銀行通帳とが、説教僧と婦女姦淫とが付き物であると同じく。
「神は偉大なり」という旗じるしを掲げて、右手に剣、左手に
日本人の宗教信念とその偶像礼拝心とを、少くとも過去の時代においては、完全に支配し得た神社仏閣に、血で汚れた錆刀や大砲などの戦利品を麗々と飾らせた日本の政治家と軍閥とは、極めて聡明にして巧智な、そして深謀遠慮ある者であった。かれらはマホメットよりも清正よりも、またコンスタンティン大帝よりも遥かに巧妙なる煽動家であり、また野蛮なる戦闘者であった。今から十数年前、かくの如き巧妙なる方法によって、軍閥と民心とを永久につなぎ合そうとした某々宰相のごとき、もし彼らをして封建時代に生を
三
いま改造の難行道を歩みつつある世界人心の不安動揺は、ただわずかに三つの差別あるに基く。詳しく云えば、この三つの差別あるがために生ずる反抗闘争を、何とかして解決すべく世界を挙げて努力しているのだ。まず第一には民族(或いは国家)の別より生ずる反争。第二には両性の差別より生ずる反争。第三には階級の差別に基く闘争。そしてこの三つの争闘のいずれにおいても、寺院教会の既成宗教はしばしば強者のために利用せられ得べき屈強の武器であることを、過去現在の事実が明かに証明している。
第一、民族闘争のために、宗教が、進軍の先頭に押し立て行く旗じるしとなり、手先であった例の極めて多いことは、既に上に述べた。いうまでもなく宗教信仰は人々の創造生活に属する問題であり、またひろく人類のためのものであって、その本来の性質から言えば、決して国境や民族の差別の上に立つものでない事はわかり切った話だ。インドの黒人が仏教を信じた如くに、吾ら日本人もまた同じ仏教を信じ、また日本人が敵国人と同じ宗教に帰依して随喜渇仰の涙を流したからとて、少しも不都合はないわけだ。もとより同じ仏教でありキリスト教でありながら、それが或る特殊の国土や民族の宗教となるとき、自然にその特殊な国家や民族の色彩を具備するに至ることも、おのずからなる現象として
いま世界はこの第一の民族闘争の問題を解決すべく永久平和の大理想をかかげ、まずその最初の一歩を踏み出すべく、極めて姑息なる軍備縮小というがごとき手段を試みている。しかしたといこれを極度に完全に実現し得て軍備全廃の域に達しようとも、依然たる資本主義の経済戦をもってこれに代えるならば、結局人類の不幸はただその形を変化したまでで、世界平和の大理想は果敢なくも蹂躙せられるのだ。こういう時にこそ最も力をこめて、この大理想の実現のために尽し得るものは、本来国境や民族の上に超越して人心を支配し得る宗教そのものであらねばならぬ。然るに二十世紀の歴史上には、神に奉仕すべき宗教家みずからが、永久平和の大理想に向って貢献するどころか、むしろ悪魔の手先となってこれを蹂躙しつつ破壊している多くの事実を眼前に見るのは何としたものだろう。
わたくしは
ドイツ
この争闘は単に国際間においてのみではない。同じ一国内ですら、英国のアイルランド問題のごとき、アルスタァを除いたアイルランドが聖パトリック以来、頑固な旧教徒であるがために、あの紛擾は半世紀にわたって、今になお砲火剣戟の争乱をさえ繰返すのだ。アイルランドの自治とか独立とかケルト人種だからとかいう問題ばかりに基くのではない。
わたくしは二十世紀の現代において、今なお
しかし英米のキリスト教徒の中には、とにもかくにも、 Peace at any price の極端説をさえも唱えて、国際平和の実現に努力したものは多かった。しかし幾千万の日本の仏教徒は、世界平和の大理想のために今まで果して何ものを貢献したか。××××××××××××××、××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。しかし永久平和と自由解脱の極楽浄土を西方十万億土の遠きにのみ求めずして、まずこの現世界の地上に建設すべく、たといわずかなりとも彼等は努力した覚えがありと云い得るか。
平和の神の教が民族闘争の具となるとき、血を見て喜ぶ悪魔の顔に浮べる会心のほほえみを見よ。
四
次には、第二の両性の差別から生ずる反争について、なるべく簡単に一言しよう。この第二の反争を解決すべく、いま婦人問題が世界の人心を悩ましている。元来がこの両性反争は決して砲火剣戟に訴うることのできない性質のものであるが、この場合においてすらも、寺院教会の既成宗教は、横暴なる男子専制のため、やはり絶好の武器となって役だつことを忘れはしなかった。また翻って考えると、遠い遠い過去において女性中心の社会が滅びてしまって以来、今日にいたるまで幾千年の間、男子はその暴力によって絶対的強者として女性を圧迫してこれに君臨し得たがゆえに、必ずしも他の武器を借るほどの必要もなく、安心して、たやすく女性を蹂躙し虐使し征服することを得た。従ってただわずかに布教伝道者の口を借って、婦人屈従の軽便な旗じるしだけを掲げておけば、それで充分に済むのであった。そしてその旗じるしというものが、やはり宗教から得たものであることは言うまでもない。しからばその旗印とは如何なるものぞ。
人間の腹の中に巣をくっている悪魔は、食物のための争闘本能ばかりでなく、今度はまた性欲という別の姿になって、更にその恐るべき猛悪兇暴の威力を発揮している。古代の原始宗教において、また今日の淫祠邪教において、この悪魔が神と握手し提携したとき、それは各種の生殖器崇拝教となり、また甚しきに至っては、おぐらき神殿のかげに、犠牲や
幼稚な宗教生活の心境は、まず自我の放棄において法悦の快感を喜ぶ事である。司祭や僧侶の手に導かれて祭壇の前にぬかづき合掌礼拝せるとき、多くの善男善女はたやすく自己のすべてを投げ出して忘我恍惚の境に入る。職業的宗教家である多くの妖僧や悪僧や怪僧は人心のこの虚に乗じ、心のゆるみに付け込んで、善男からは巧にお布施と称する財物を巻き上げるとおなじく、更に弱きが常なる女からは、その天地にも
学者が呼んで「宗教的売淫」と総称するものは、神を象徴し代表せる或る者によって婦女の貞操を
この極端なる実例としては、たとえばバビロンのミリッタ崇拝 Milittacult のごとき、今日、常人のあたまでは到底考えられもせず信じられもしないような醜怪な風習が、かつて熱烈なる宗教信念を以て行われていたのであった。多くの
かくの如き実例は枚挙に
×××××××××××××××××××××××、×××××××××××××××××××××××××××ように、古代宗教の婦女姦淫もまた、後に至っては色々な美名によってその形式を変えて進化した。教会は花嫁でキリストは花婿であると言ってみたり、尼さんや信心ぶかい処女のことを神の花嫁たちと言ってみたりするのは毫も珍らしくない。尼僧がはじめての得度式には花嫁の盛装をして神の祭壇にぬかづき、この神秘的なる結婚式によって永久にキリストの妻となるというのだ。性欲の悪魔がさまざまに姿を変えて仏智不思議となり、宗教的神秘説となるとともに、ローマ旧教の祭式ともなり、
宗教の進化は、やがてその女性観をして、幼稚な原始宗教とは全く正反対の観を呈するに至らしめた。即ち女人凌辱は、今度は逆転して女人崇拝となった。女子の生活の全部が男子性欲の対者としてのみ観られるとき、さきにこれに屈辱を与えていた者が、今度は更に悧巧になって、これを尊崇礼拝するに至ったのに不思議はない。つまり逆の手を執っただけで、男子と同様な人格を「人」としての婦人に認めない点において、根本精神は少しも異る所がないからだ。日本の仏教は階級的な、そして男尊女卑の孔子教を奉じた支那を通して伝来したのだから趣を異にするが、インドの仏教にはまず天を拝し地を拝し太陽を拝し、また女人を拝せよという思想が確かに存在した。しかしこの女人讃仰の極端なるものは、もとより中世キリスト教の
さきに私は女性観の逆転といった。そして筆がはからずも聖母崇拝に及んだとき、悪魔の宗教の女性観が如何なる進化の経路を取って、今日の婦人侮辱思想となったかを語るべき好機を得た。
ローマ旧教で云うところの
御母の夢に、
金色 の僧きたりて「われ世を救う願あり、願くはしばらく御腹にやどらん、我は救世菩薩、家は西方にあり」といいて、おどりて口に入ると見たまいて、孕まれ給いつる所なり。——『古今著聞集』巻二。性信二品親王は、三条院の末の御子。御母は小一条の大将濟時卿の女なり。むかし母后の御夢に、胡僧来りて、「母の胎に託せんと思う」と申しけり。その後懐妊したまいけり。——同上。
平等院僧正行尊は一条院の御孫、侍従宰相の子なり。母の夢に、中堂にまいりたりけるに、三尺の薬師如来を抱き奉ると見て、いくほども経ずして懐妊ありけり。——同上。
マリアの清浄受胎はプロテスタントの方では否定しているが、とにかく、亭主に覚えのない子供が出来たのならば、それがキリストだろうが、「×××××××××××××、××××××」だろうが何だろうが、それはみな明らかに姦通によって生れ出でた私生児に相違ない。単性生殖 Parthenogenesis は、人類のごとき高等動物において、絶対に不可能な事はわかり切った話だ。東西の宗教家というものが両性関係について
五
進化と共に逆転して女人崇拝となった清浄受胎説の根本には、性欲の絶対拒否がある。正しい生殖行為をも否定し去ろうとする禁欲思想が、疑いもなくその根柢に存在する。ここに至って、悪魔は更に恐るべき新しき仮面をかぶった。すべての種類の宗教が、皆ことごとく或る程度の禁欲思想を主張せる明確なる事実あるを見よ。
婦人の人格をみとめずして、単にそれを横暴なる男子が自己の性欲満足と生殖作用の対象としてのみ見るとき、禁欲思想はやがて女人罪障の説となってあらわれた。すでに婦人の人格を認めないのだから、性欲の人格化、即ち私がさきに『近代の恋愛観』において反覆して説いたような恋愛は到底考えられない事になる。個性化されたる人格的な性的生活、即ち恋愛を、正しく認めて居ないのだから、いきおい荒淫乱行となるか、然らずんばこの不自然なる禁欲思想たらざるを得ないわけだ。すなわち女人という者から性的生活を全部引き抜いて、清浄受胎説という馬鹿げ切った虚偽を作り出し、これを礼讃していたのである。姦淫と禁欲と、凌辱と崇拝とは、婦人の人格を認めざる悪魔にとって、両方ともに、極めて都合のよい旗じるしであったのだ。すべての両極端は相等しい。原始宗教の婦女姦淫も、進化した宗教の禁欲生活も、外面は正反対だと見えながら、実は全く同一物に外ならないのである。
禁欲主義に立てる昔からの高僧の多くは、強烈なる情欲の人であった。聖僧と云われる人たちの顔を見るとき、私はしばしば悪魔的な性欲犯罪者をさえも連想する。また僧侶に限らず、すべての禁欲的傾向の思想家は、強い性欲のために自分がひどく苦しんだ体験ある人か、或いは
筆が思わず横道にそれたが、この禁欲思想はまず初代のキリスト教においてパウロの教えであったことは人の知る通りだ。その婦人に対する教訓に云う、
「
婦 なる者よ、主に服 うが如く己れの夫に服うべし。そはキリストが教会の首 なる如く、夫は婦 の首 なればなり。キリストは身の救主なり。されば教会のキリストに服うごとく、婦もすべてのこと夫に服うべし」——エフェソ書五、二十二—二十四。
亭主を活き仏か神の化身だと思えと云うのだから、この婦人圧迫は日本の夫唱婦随説どころの騒ぎではないと思う。もとより私はこれを以て古代の僧侶が、自ら活き仏となり救い主となって婦人を姦し、或いは犠牲として神前に女を献げたのと同一視するものではないが。
しかし禁欲思想によって、キリスト教が真に婦人征服の完全なる武器となるに至ったのは、言うまでもなく中世紀においてである。男子専制の思想は、婦人をおのが性的生活の対象たる奴隷としてのみ見るが故に、性欲を否定すると共に、女人を以て一切の罪悪の素因なりと見なし、人生の魔障なりとしてこれを侮蔑した。(同一の中世時代においてすら女人崇拝の他の半面にこの反対現象を見る事は、既に上にも述べた通り、自然なことではあるが、また興味ある事実だ)。ラテン語の女 Femina の語は「信仰なきもの」を意味し、女性は永久に呪われたる者として、さげすまれた。そこで横暴な男子が考え出した極めて面白い、そしてまた婦人侮辱思想の極度を示した有名な一つの旗じるしが出来た。それは即ち中世の「
キリスト教神話にいうエバが智慧の木の実(即ち性的智識)を味わってから、人間は堕落して神の楽園を追われた。一切の性的生活は罪悪だと云うところから、かの
禁欲主義の仏教が同じくまたこの旗じるしを用いて、婦人征服の武器としている事は、もとより言を俟たない。高野の山は長い間女人禁制であり、説教僧はいつも壇上から、女子に五障三碍ありと言って、今日なお参詣の婦女に向って甚しき侮辱を与えている。禁欲の宗教としては極めて寛容の態度をとれる念仏宗においてさえ、その『浄土和讃』の一首に云う、
弥陀の名願によらざれば、
百千万劫すぐれども
いつつのさわり離れねば、
女身をいかでか転ずべき。
古来宗教家は、さながら変態性欲病者のサディズムのごとくに、東西ともに女を
犯罪者のなかに、心から宗教信仰深きものを見ること稀ではないという事実を、犯罪学者は指摘しているが、以上わたくしが述べた宗教の性的暗黒面を見ただけでも、這般の消息は容易に理解せられるであろう。既に余りに長きに失したこの一節を終るに先だって、私が
自覚ある個人がその性的生活を強く個性化したものが恋愛である。それは云うまでもなく個人としての対等の人格を基礎としている。ところが婦人を男子よりも一段と下等なものにして、恋愛なき凌辱的、不見転結婚をも神聖なりとし、正義なりとするためにはさしあたり宗教の悪魔的威力を借る事は最も都合がよい。古代の寺院売淫なぞは全然恋愛を無視して相手構わずに「神聖なる」性交が行われたのだ。支那の方では立派な宗教になっていた孔子教の祖先崇拝、階級差別の教を日本化したる家族主義の信仰が、いかに多く、この人格的なる恋愛結婚妨害の利器として役立っているかを思え。×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。ちょうど古代宗教が結婚式に際してまず王侯とか僧侶とか家長とかに「初夜の権」 Jus primae noctis を与えて、処女の神聖を奪わしめたと同じく、今ではその Defloration が見ず知らずの新郎によって行われるというだけの違いだ。
六
第三の差別に基く反争は即ち階級闘争だ。この争いにおいて、伝来の誤れる既成宗教や寺院教会が、貴族、資本家などすべての特権階級のために、今も昔も、いかに巧みに悪魔の
すべて強者の専制横暴は、宗教の魔力を借らずしては行われ難いものだ。昔から多くの暴君や専横の貴族は、この理由のために必ずまず寺院僧侶を保護した。神とか仏とか寺院とか教会とか何とかいう偶像を背後にして僧侶が物を言うとき、理屈なしに人は
私は今さら中世のローマ教会と法王の教権とが如何に恐るべく偉大なものであったかを繰返すの煩を避けよう。またフランス革命以前の貴族と僧侶との関係などを挙げて、専制の怪力としての宗教が、東西の歴史の上に如何にしばしば巨大なる暗影を投じたかをも言わないであろう。ただここにまだごく新しい事実として、ロシア専制政治崩壊前におけるギリシア教会の偉力を見よと言おう。かのロマノフ王家の虐政は教会の神秘的威力を唯一最大の武器とすることによって、はじめて行われ得たのであった。教会の議決命令信条は直ちに神の宣言として、救世主の名において行われるが故に、すべての modus は言うまでもなく、政教いずれの方面においても、その絶対の命令には必ず絶対の服従が要求せられた。露国のギリシア教会は一億万に近き民衆を信徒としたが故に、傲然として帝都に君臨せる大魔王のごときそのシノッド(総本山)は、常にあの尨大なるザアの帝国を、意のままに左右し得たのであった。一世の大思想家トルストイもこれがために破門せられた。信仰の人ドストイェフスキイが、シベリアの
人或いは云うだろう、それは旧帝政ロシアの特別の国情によるのだ、英米その他の諸国においては然らずと。それならば再び思え、今日いずれの国においても、その寺院教会あるいは青年会や救世軍のごとき凡ての宗教団体が、果して何人の資力によって維持せられつつあるかを。詳しく言えば、幾千万の宣教師僧侶というものが精神的にも肉体的にも何等の苦しい労働に服せず、ただアーメンを唱え木魚をたたく事によって、金襴の袈裟法衣を纏うてやすやすと生活し得るのは、主として何人の資金によってであるか。あの
米国は世界における最大の資本家国であり、また寺院教会の最も富有な国だが、その国でのまた最大の資本家の一人であるロックフェラァの爺さんが今年八十幾つかになるまで、写真というものを嫌って滅多に写させた事がなかった。——私はこの話を、つい前週に或る外国雑誌で読んだのだが——そこで或る新聞記者が、無理にでも写真をとらせてくれと頼むと、翁は遂にこれを諾した。然しそれには一つの条件があった。お前さんが来月まで、毎日曜には欠かさずに私の行く教会へお参りするなら、そのあとで写させてやる。記者は遂にその言の通りにしてこの写真を得たと云って、皺くちゃの爺さんの顔が写真版になって出ていた。如何にも、これなぞは日本でも資本家の御隠居さんの云いそうな事だが、その教会がまたロックフェラァ家の巨万の大寄附金によって維持せられていることはいうまでもなかろう。またかの支那朝鮮の内地などへバイブルと医療器械とを提げて行って、資本主義的国家大発展に資しつつある多くの宣教師も、これら資本家の財源によって派遣せられていることも言を要しないのである。
米国とちがって日本のように古い歴史を有する国では、今日なお寺院が幾百年前から支配階級によって与えられ保護せられた
多年うまい金儲けをして身は大資本家となって貴族に列せられる頃には、引退して何食わぬ顔で今さら論語なぞを説いて廻った男があった。それも長年の罪滅ぼしには誠に結構であるが、多年の搾取によって積み得た巨万の財を寺院に寄進して、新聞記者にお寺参りを強要するアメリカの御隠居さんとは実に好一対の者であろう。わたくしは経済学について何らの知る所はないが、
ここに至って私の念頭に浮ぶものは、バアナアド・ショウの傑作である三幕物の戯曲『バアバラ少佐』である。作者一流の辛辣痛烈を極めた皮肉を以て、世界最大の軍器製造業者アンダアシャフトをして、資本家一流の奇怪至極な人生観社会観を語らしめ、この人殺しの武具製造者の娘バアバラをして、救世軍という宗教団体の一士官たらしめ、これに点ずるにバアバラの恋人であるギリシア語の
「富人の施物分配者としての宗教団体は、圧迫者補助のようなものだ。石炭や毛布やパンや砂糖水で『貧乏』の謀叛的な
鋒先 を取り払い、来世においては広大無辺の幸福が得られるという希望を与えておいて、犠牲者を元気づける。その時はもう貧乏人が、ちゃんと富人の御用を勤めて早死する段取りがこれで完了している時なのだ」(同書178頁)
すべての宗教団体が、現世においては社会事業のために尽し、未来においては極楽浄土や天国に導くという救いの仕事は、実に無産者の血と汗とを搾取して得られた資本家や貴族などの財嚢から出ている。そこでこの宗教家たちは果して如何なる言を以て、その謂わゆる
私は平素寺院の説教なぞを聴くような機会はない。しかし、ついこのあいだ、ふと茶の間に転がっていた『婦人』という雑誌を取って何心なく中をのぞくと、巻頭に大本山と関係浅からざる或る貴族の夫人で、いつも仏教婦人会というものを主宰したりする人の説教めいた物を見た。その中には下のごとき言がある。
階級闘争という事につきましても、仏教の教理が因果の原則の上に立って居ることから理解させて頂きますと、世間のすべてはみな各自の惑業のあらわれであって、自己の業果によって自縄自縛せられ、どうしても因果を自身で左右することはできないのみならず、善因善果ということもその人の業果なのです。この世において正直に勤勉しながら、なお不運であったり、不義のものがかえって幸運であったり、到底現在一世では説明のできない矛盾も三世因果の法から
容易 く信ぜられますし、また現世の果報の中には過去世の業のあらわれもある。現在の業が現在に生ぜず、未来において果を引くものもありましょう。この矛盾も三世に亘 って考えれば、因果の法のあらわれに外ならないのだとも思います。大無量寿経に「善人善を行じて楽より楽に入り、明きより明きに入り、悪人は悪を行じて苦より苦に入り、冥 きより冥きに入る」とのお示しは誰にも了解のできる自明の理なのです。無差別に、平等に、と希 うことは人間の欲求として無理からぬことで御座いますが、但しここに因果の理の必然として有産無産、貴賤の区別が自ら出来るように考えられます。
これは
また職業的宗教家の或る者はいう、聖者の説ける同朋主義、平等無差別観は、宗教生活の法悦において体験せらるべきもので、大乗仏教のこの所説は社会改造問題に持出すには余りに貴きに過ぐと。なるほどそうかもしれない。しかしもしその通りならば——即ち宗教生活と社会問題とを峻別することが正しいというならば、今日何が故に仏教家は自ら進んで社会事業なるものに手出しをするのであるか。何の必要あって何の理由あって、
- 仏教徒社会事業の奨励ならびに連絡統一に関する件
- 一、 各派宗務所又は本山は社会課を設置して左記各項の事務を専任せしむる事。
- (イ) 宗派内寺院住職を奨励して所在地方に適切なる社会事業を経営せしむる事。
- 云々
かくのごとき決議案をまで提出するのであるか。それは明かに頭と
人々はいま生活の痛苦に悶え、魂の飢えに泣いている。かくて救いを求めんとするに急なる人心の虚に乗じて、怪しげなる因果を説き、消極的な諦めをすすめて、資本家や特権階級の温情主義の手先となるがごときは、決して真の宗教家の天職ではあるまい。それは飢えたる鼠に与うるに猫イラズの饅頭を以てする悪魔の
或る所で市区改正をして電車のために道路を拡げた。そこにはかなり大きな寺院があって、境内には勿論空地もあった。電車道路のためにその一部を取払おうとすると、寺僧は頑然傲然としてこれを峻拒した。曰く、当山は何とやら家という貴族の菩提所だと。やむを得ず、その寺と反対の側の十数軒の小さき民家は取払われて、電車線路は迂曲する外なかった。悪魔の殿堂の威力は恐ろしい。
以上は主として日本の現状について云ったのだが、西洋の方を見ると、中世修道院の孤独の宗教が、文藝復興期以後全く面目を一新するに至って、宗教の社会性ということが著るしく強調せられるに至った。特に近代に至ってはオウエンやサン・シモン等の宗教的な社会改造論が最初の刺戟となって、宗教は社会運動と結び、前世紀中葉のキングスレィ、モオリス等のキリスト教社会主義ともなった。もとよりそれは長続きはしなかったが、ラスキンやカアライルの社会論もまたこの系統に属するものであった。特に英米で今日宗教家の社会事業の盛んなのも、当時の影響だと見られ得る。ただしマルクスやラッサアルの感化が強くなるに従って、キリスト教の博愛人道主義的の社会改良論は勢力を失墜したことは疑われない。特にまた宗教家には東西ともに固陋な人が多くて、今もなお、現世において人は各々その分に安んぜよ、やがて来世に天国は到らむなどと説くので、一般から云えばキリスト教は
ついでながら近ごろ、日本で僧侶の力によって「思想善導」を図るという話を聞いた。今の日本の仏教界に果してその人があるや否やを私は知らない。説の可否は別として、現代英国思想界一方の雄たるイング僧正のごとき学徳たかき人が果して居るのだろうか。
七
人間が生きるということは、そこに何らかの信仰があり要求があり理想があるからだ。すべてこれらを否定すと言いながらなお生を貪ぼる者あらば、そは虚偽の徒にあらずんば則ち畜生だ。人間らしき信仰、人間らしき要求、人間らしき理想の全部を否定し去るとき、そこには「死」よりほかに歩むべき道は有り得ないはずだからである。近頃日本文壇の作家の一部に怪しげな虚無思想の流れを見るようだが、あれなぞは自分が生きんとする努力の足りない結果、極めて浅薄なる自暴自棄に陥った絶望を、売文の商売道具に使っただけのものとしきゃ考えられない。少しく酷評すれば、損をした株屋のやけくそ生活と何ら選ぶところなきものである。真のすぐれた思想家藝術家には、たといそれが虚無主義の人であるかのごとくに見えていても、そこには常に何らかの理想と信念の閃きがあった。普通に虚無思想家だと思われているツルゲエネフは、あれは実は一種の夢想家であったのだ。また絶望厭生の破壊思想を噴火山の爆発のように十九世紀の思想界に投げだした最初の第一人者バイロンさえ、今日から思えば、「自由」という理想を棄ててはいなかったのだ。ただツルゲエネフやバイロンにおいては、この理想と信念とが余りに夢幻的であり空漠たるものであったというに過ぎない。
私は斯くのごとき意味において、また常に、肉より霊へ、物より心へ、常識より神秘へ、有限より無限へとあこがれることが、人間のとうとき本性であることを信ずるが故に、宗教そのものの意義と存在とを飽くまでも強く肯定するものである。ただその信仰とあこがれと理想とが、空疎なる概念や、死せる偶像であってはならないというのだ。この信仰、この理想は、飽くまでも生命の烈火に燃ゆる人生の藝術であり人生の宗教であらねばならぬと考えるのである。かの前世紀の多くの唯物論の徒や、或いはニイチェ、バアナアド・ショウなどの口吻を学んで宗教そのものを否定し攻撃するが如きは、根本において人間性の貴とさを侮辱したる謬見だと思う。それは確かに人間冒瀆である。
わたくしはキリストによって仏陀によって説かれたる宗教が、その本質において天地と共に偉大であり、日月と共に永久であることを十分に承知している。毫もそれを疑うものではない (支那においては宗教となっていた孔子教という祖先崇拝教は、宗教として全然無価値なものだとは思うが)。ただ私の言わんと欲する所は、既成の寺院宗教の偶像化、功利化を飽くまでも排撃したいと思うのである。生命なき囚われたる既成宗教が賤劣なる妖僧俗僧の魔手に弄ばれ、巧みに利用せられ悪用せられるとき、大魔王の恐ろしき毒手が、神壇の背後に動きつつある実際の事実を見よと言うのだ。今日いかに多くの憎むべき罪悪が、胸に十字をかけたる黒衣の人や、活き仏を粧える
神や仏が寺院教会に在りとのみ思うのが根本の誤謬だ。信仰は人間の個性の表現であり、生命の創造である。詩人実朝の言葉を借りて云えば、「神といい仏というも世の中の人のこころの外のものかは」(『金槐集』雑部)。たといトルストイは国教たるギリシア教会から破門せられても、また愛国心と宗教との野合に力づよく反対したにしても、彼が近世における最大のキリスト者であったことを疑うことはできまい。革命詩人シェリイは無神論者であったと普通に言われるが、その大作『
既成の寺院の宗教は、たといそれが俗僧の手によって悪用せられないまでも、多年の歴史的因習の結果、それ自らのうちに既に多くの迷信と偏見とを包蔵し、殊に私が現代生活における新理想主義の三つの標識として掲げた (一)世界平和 (二)恋愛至上主義による男女関係の更新 (三)階級打破の新社会を求むる思想 (詳しくは改造社より近刊の拙著『近代の恋愛観』105–114頁を参照せられたい) と背反せること著るしきは、上来述べ来った通りの有様だ。今もなお昔ながらの極めて偏狭固陋なる差別観の上に立ち、過去の時代の多くの謬見迷妄に煩わさるるが故に、既成宗教が今や既に自縄自縛の窮地に瀕しつつあることは否定すべからざる事実である。
「行きて諸国の民に教えよ」というマタイ伝の結語を見て、わたくしは
キリストはいう、「ああ
友人の紹介名刺を持って来て玄関に面会を求める男がある。会ってみると保険会社の勧誘員で、かれは滔々と保険の功徳を説き立てる。あなたのお為ですからと云うが、実は彼自身の会社の利益配当を一銭でも多くしたいからだ。保険は私のために加入するのだから、私が求める時私から申し込む。保険の押売はお断りすると云って、私はハイカラな服装をしたその勧誘員を追返してしまった。
今の寺院教会の布教僧宣教師と、この保険の勧誘員と果してどれだけの違いがあるだろうか。各宗各派は何の必要あって布教伝道の競争なぞをするのか。その競争する心には、各保険会社の勧誘員が悪辣を極めた競争をすると同じく、寺院の収入と勢力とを少しでも大きくしたいという職業的争闘根性が毫も無いと言えるだろうか。これは独り異れる宗旨宗派の間においてのみならず、同一宗派内においても、僧侶や宣教師ぐらい勢力争いや欲得づくの野卑な喧嘩をするものは無いと思う。
むかしミルトンが『失楽園』に描いた
求めよ、然らば与えられんと云う。今は人々が心の生活に飢えて、求むること日にますます切なるの時である。しかるに寺院や教会は「パンの代りに石や、魚の代りに蛇」どころの騒ぎではない。猫イラズの饅頭にも似たる悪魔の残飯を与うるほか、理想たかき現代の新人に与うべき清新なる何物をも提供して居ないではないか。職業的宗教家みずからにさえ偽らざる確固たる信仰が無いのではないか。
今はすべてのものが皆新しき内容と形式とを得べく努力している。その今日において、少くとも日本だけで云えば、一番時勢の進運に後れているものは、まず遊廓と寺院とであろう。二つのものは昔から仲が好い。
旧信仰の廃墟が今すでに悪魔の殿堂と化しつつあるを見よ。いつまでもそのおぐらき須弥壇のかげに、消えなんとする明滅の燭光を仰がんよりは、人々よ、まず自らの心の聖殿に、新たなる生命に燃ゆる信仰の霊火を点ぜよ。
初出: 『改造』 大正11年11月号2〜28頁。 上掲本文は初出版を底本にし、 『厨川白村集 第五卷 戀愛觀と宗教觀』 (大正14年 厨川白村集刊行會発行) 339〜387頁所収のテキストに拠って補訂した。 本論文は他に 『厨川白村全集 第三卷 文学評論』 (昭和4年 改造社発行) 215〜251頁にも再録されている。