鉄鉢慈善鍋 (上)
服部菊三郎
管子
「衣食足りて則ち栄辱を知る」——
生物には饑えほど恐ろしきものはない。
たとえ基督が
「人は麺麭にのみ生くるものにあらず」
と喝破するといえ、
人間本能中最も著明なる三慾中、
利慾、性慾に抜きんずるものは食慾である。
可憐従順なる野犬が猛犬になり狂犬となって人にかみつくも、
彼の労働争議も、
ただ麺麭に対する不足不満であるまいか。
思え、
彼のロシアが人肉を人に喰わす此世ながらの地獄も、
饑えでなくって何である。
名士が徒らに説く
「飢餓は礼儀の試験、友誼の試金石なり」
との机上卓説も、
事ここに至りて幾莫の権威あるか。
麺麭のみが至上である。
精神修養談、実に結構。
しかしながら餓えたる者に与うる一塊の石に終らずんば幸いである。
文明の曙光は実に生活の安定もしくは余裕あるものにおいて輝きはじめ、
秩序礼節を知り、
栄辱を知る境に達するのである。
充実したる真の文明は、
第三帝国は、
ここに展開せられ、
祝福されるのであるまいか。
聖上陛下が御登極御大典にあたり、
感化賑恤資金御下賜の詔勅中にも
「民の貧しきを済うより先はなし」
の一節がある。
蘆花は
『自然と人生』
の中に「
愛国忠君、そは君の説くに任す。
願わくば陛下の赤子をして飢えしむる勿れ」
と叫んでいる。
今や歳暮、
掃煤春餅、
四隣に声し、
残余日いくばくなし。
この時、うら冷たい鉄鉢慈善鍋の中から、
つらつら世想を感ずるに、
役人は経費節減と時間延長の板ばさみ、
銀行は彼の取付騒ぎ、
商人は不況、声をからして投げ売り、たたき売り、
農村は不振いつもながらの掟騒動、
会社は事業挫折、中止、無配当、無ボーナス、
各御台所は出来るかぎりの諸事大節約、
いずくも同じ秋の夕空ならぬ歳の暮。
ここに狂歌二三あり
持統天皇
かりすぎて ここもかしこも ふさがりて ゆうずとまりて 頭かく山
内親王
おとにきく 高き利息の 金をかり 無駄に使いて 後でこうかい
法性寺入道
よくの原 めっぽう高く 売りつけて たおれが出来て 元の杢阿弥
小野小町
顔の色は かわりにけりな あきんど衆から売れないで ながめせしまに
中納言家持
嬶や子の 帯や着物を置く質は 古きなりしぞ 値ぞ下げにけり
然り、このとき「みぶの仲峰」ならぬ
ありたけの 道具みんなうて喰い この身ばかりは 売物もなし
すでに日に過ぎる一物もなく、
身には襤褸、
半椀の糟糠だも口に飽くあたわず。
壁は落ち、
風は破窓に吟ず。
飢えと寒さの飢餓線に低徊する鰥寡孤独の窮民の生活、
年の瀬たるや誰か見反り訪うて、
一掬の涙をそそぐものあらんか。
都会よ、文明よ、博愛よ、慈善よ。
社会事業の声は余りに吾人の耳朶に響き過ぎて居る。
六大都市の真中に、
暮れも正月も無関心、
僅か一分芯のカンテラに、
九十の老婆が怪しげなる目許手取でマッチの箱張り、
悄として語なく、
孜々暖とる火気もなく、
手にいきしては水鼻たらして、
折柄の早き入日をかこちつつも、
月額にして三十銭の家賃と米代とを稼がなければならない悲惨な事実は、
自分は余りに多く知って居る。
明治初年に発令せられたる、
これら無告の窮民に対する救助の諸規定は、
今日すでに空文形骸を残すに等しい。
然らずんば繁文縟礼だ——
一言一句、冷たい理屈と、
迂遠で人間離れの感がある。
真にこの適用を受けている者は九牛の一毛にも当らない。
〔大正11年12月26日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕