廃墟の死都 (1)

鵜飼桂六

大正12年9月1日午前11時58分46秒、 俄然がぜん、 関東を襲うた前古未曽有の大地震は、 挙げて東洋文化の中心地をして一大廃墟たらしめた。 半世紀にわたって刻苦経営した、あらゆる科学文明も、 あらゆる機械工業も、 あらゆる生産機関も、 ことごとくみな根柢より破壊しつくされた。 満目まんもくすべてこれ焦土しょうど、 見渡すかぎり一物をとどめない。 これをポンペイの惨禍に比べ、 サンフランシスコの火災にくらべんか、 その震動地帯の巨大なる、 その焼失区域の広漠たる、 彼は到底この談ではない。 倒潰とうかいおよび焼失せる家屋は実に五十有余万 (俗に名古屋の三倍を超ゆるであろう)、 圧死あるいは焼死せる人、合算して二十有余万 (日露戦争の約二倍)、 私の目撃したかぎりでも、 まさに眼前に恐ろしい白骨の山を築き上げることができる。

平和なるところに居るものよ、 ただの一度でもよいから想像してみよ。 日に何千何万という死体の集団が運ばれて、 それが濛々もうもうたる黒煙となって荼毘だびにせられる果敢はかなさを想うとき、 誰かこれが人間の世の出来事と考え得ようぞ。 神仏の激怒か、あらず。 天帝の暴威か、非ず。 怨霊の跳梁ちょうりょう、 悪魔の跋扈ばっこ。 ああ人間よ、永久に呪われてあれ、と痛感しないものが、 果して一人としてあったろうか。 私は不幸にして、未だかつて人間によって作られたアゼェクティヴにては形容する道を知らない。 かくのごとく、災後の光景は戦慄を覚えずして報道することができないけれども、 私は今、 人力の為し得る最善を尽して、 そのときのありさまを書き起すことに努むるであろう。

私は記憶する—— 私はそのときまで、いつものごとく、神田今川小路一の一の大鎧閣だいしょうかく内にあって、 出版書籍の編輯へんしゅうに従っていた。 と、 たちまちけたたましい異様の地響きがとどろいてきて、 ぐらぐらと一揺り揺れたかと思うと、 付近の家屋は一斉に地に伏した。 その間、 間一髪を入れざる敏捷びんしょうなものであった。 し潰された隣家の屋内よりかすかに聞えてくる幼児の悲鳴の声、 筋向いの女子職業学校よりまさに燃え上らんとしつつある火の手。 電柱は倒れんばかりに揺れ、 震動はいよいよ頻繁ひんぱんになる。 裸馬が一匹狂奔してくる。 警官が幾人となくそれを追う。 貨物自動車が疾駆しっくする。 見る見るうちに二三人の者が車体に触れる。 逃げまどう群衆のどよめき。 そこ、ここには無数の亀裂が生じている。 震動は依然として止まない。 炎々えんえんとして火は燃え上る一方だ。 水の流れのごとく火も流れる。 寸時にして神田は烏有うゆうに帰せんとしつつある。 私どもは再会を約して思い思いに血路けつろ辿たどる。

私は九段に上った。 はじめのうちは点々として数え得るほどの火の手であったけれども、 しばらく経つ間にそれは無限に殖えて行く。 私はそれから神楽阪かぐらざかに出た。 飯田町付近一帯、水道橋の砲兵工廠こうしょう等が焼けている。 爆発の音が断続して天に轟く。 聞けばこのときすでに、本所、深川、下谷、浅草、日本橋、京橋、芝等も、 十重とえ二十重はたえ火焔かえんに取りまかれているとのこと。

かくて二昼夜、約四十時間にわたる猛火の手は、たちまちにして東京を一大焼野ヶ原と化せしめた。 歴史あって以来、かくのごとく広き人間生活の密集区域が、 かくのごとく無残に大破壊を受けた例がかつてあったろうか。 ナポレオン一世を愕然がくぜんたらしめたモスクワの大火災も遠くこれに及ばない。 また最近、 ロシアに行われた革命すらも、 それはほんの一部の外見を代えたに過ぎない。 金、銀、宝石類を多数に所有している大商店は、依然としてモスクワの一美観を添えており、 レストラン、コーヒー店、バー、喫茶店、演劇場等は到るところに昔の面影をとどめ、 目貫めぬきの街路は今もなおロマノフ家王朝栄華のときの印象をそのまま遺している。 しかるに今度の災害は、 三越みつこし白木屋しろきや松坂屋まつざかやをはじめとして、 御木本みきもと天賞堂てんしょうどう精巧舎せいこうしゃ等をしてことごとく灰土と帰せしめ、 いたるところの銀行、会社、工場、商店、もしくば各新聞社、諸官衙かんが、学校、教会、劇場、寄席等、 わずかにその二三を余すほかは、 その全部を以て祝融子しゅくゆうしの犠牲を化せしめたのである。 すなわち知る、 およそ人間の為し得る最大の革命——戦争の形式をも含む——も、それは遥かに自然の革命にかざることを。 換言すれば、自然の革命は常に人為の革命の外に超立することを。

私は今、 ただ道楽のためにのみ、 決して斯様かような感想を付け加えるのではない。 すべて人間は常住不断に、 いつ、いかなる場合においても、 より以上の異変を想像し、より以上の悲劇を予感していなくてはならぬ (ものである) ということを明かにしたいからである。

〔大正12年10月8日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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