貧の哲学 (1)

鵜飼桂六

世界を富の哲学からさえぎるに足るひんの哲学は、今や一つもない——この確信は驚くべき確信である。

私は私の生存する時代においては著しくアンチモダーニストであるという象徴的関係に立つ。 私は現実を信じない。 私は生れながらのユートピアニストである。 私をしてつねに不断の試練に堪えさせ、 そしてこの牢獄のごとき惨苦の社会から私を救い出だすものは、 私の信念であったただ一つのみの思想の光りにすぎない。 私は私の思想の光りを凝視することを、他のあらゆる科学の力を尊重することよりも、 なお一層緊切きんせつであると感じている。 私の魂を認めない人は、 敢て関しない。 私は私の友に告げる、 私は依然として一個のスピリチュアリストであることを。 私にあっては、 何かを破壊し、建設し、創造することなくしては、 生命の糧を得るに可能でない。 くて私は永遠に開かれることのない天国の扉の秘龠ひやくを探すべく、あちらこちらとさまよう。……

私は敢て言う、精神は光である、物質は影であると。 影があって、光があるのではない。 光があって、影があるのである。 精神があって、物質があるのである。 影のために光を覆うことをしてはならない。 物質のために精神を忘れることをしてはならない。 影をして光の前に立たしめよ、 物質をして精神の前に立たしめよ。 明暗は立ちどころに決し、 貴賎は立ちどころに定まる。 しかるに近代の聡明なる思想家は、 精神と物質とは不可分律であると説く。 けれども、もし光と影とを、 精神と物質とを相同じき見方において一致せしめるならば、 私どもはこう言う詭弁に陥るであろう—— 真や、善や、美やは、 所詮しょせん、偽りや、悪や、醜やと何ら識別すべき思考上の根拠を持たないことを—— 言い換えれば、個々にそういう真や、善や、美や、偽や、悪や、醜や、光りや、影や、精神や、物質やを分けることすらも可能でないことを。

私に一つの比喩たとえを挙げることを許していただきたい。 人間は生物である。 肉体的存在は短かい。 されど、その肉体的存在を離れて人間を直観するとき、 そこに私は以上の崇高なる霊魂的生命の長さを感ずる。 釈迦は死に、 耶蘇ヤソは死んだ、 しかも常に生きている。 例を他に引く。 プラトンは死に、 ダンテは死んだ、 しかつねに活きている—— 宗教家の名において、 哲学者の名において、 藝術家の名において。 人は偶像をもって肉体と名づけ、 著書をもって物質と言わないであろう。 偶像は肉体以上であり、 著書は物質以上であるからだ。 光と影とに対して明暗の判断を決し得ない者、 精神と物質とに対して貴賎の価値を定め得ない者、 彼らは偶像をもって一個の木屑となし、 著書をもって一片の紙切となすものに相違ない。 そういう哀れなる議論を繰返すものに対して、 私は沈黙を守る。

およそ人生にとって最も危険にして且つ困難なる計画は、 いかにして物質に生くることに恬淡てんたんであり、 いかにして精神に活くることに貪婪どんらんであるかという点にある。 そして私は思う、 乞食はただ彼が生前不幸であったためにのみ天国へ行くであろうことを。 私は彼が天国へ行く、さらにより善き理由を発見することができない。 私は耶蘇が 「貧しき者は幸いである」 と言う霊魂の高さにおいて、 彼ただ独り、 いかなる富める者にも暴力を加うることなく、 そして、 あの際においても、 彼ただ独り、 いかなるあしき者にも罰則を下さなかった、 その偉大なる憐愍れんびんの激怒と、その完全なる慈愛の義憤とを想起するものである。 それゆえ今日こんにち、 世の常のマテリアリストが如何なる迫害を私に加えようとも、 私は私の信念を敢てげることはしないであろう。 私はヒウマンを物質的に取り扱うごときマルクスの機械的宿命論や、 人格を同じ無上命令の下にあらしめるごときカントの道徳的方法律や、 万人を相等しい富の理性の上に置くごときクロポトキンの自然主義的科学文明の世界を、 微塵みじんでも承認しようとするものではない。 それはスミスの経済学や、 ユウクリッドの幾何学や、 ダアウィンの生物学やよりも優った意味においての合理的必然法則であるということ、 それ以上の何ものでもなく、 それ以下の何ものでもない。 方法はいくら解剖しても方法であって、 目的ではない。 理性はいくら説明しても理性であって、 感覚ではない。 近代の散文が何ゆえ人間生活を革命することに無意義であり、 近代の創作が何ゆえ精神王国を建設することに無価値であるかは、 主としてこの理由にもとづく。

〔大正13年3月9日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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