日本の将来と宗教

〔座談会〕

出席者(発言順): ハインリヒ・デュモリン、 花山信勝はなやましんしょう
中村元なかむらはじめ折口信夫おりくちしのぶ、 フーゴ・ラッサール、 増永靈鳳ますながれいほう

一、現在の宗教的情況

編集者  私どもの考えますところでは、現在ほど日本の国民にとって、どの見地からみても、宗教が強く要求されている時はないといっても過言ではないと思います。 すなわち国民全体としてみても、あるいは国民の個人一人一人にとっても、何か精神の中心になる支えといったものを失って、一つの空虚さを痛感し出して来ている。 その結果として、そういった空虚さが一方には精神的な危機をはらみ、同時に宗教への指向と要求がその点に起ってくる、とこう考えられるのではないか。 本日お集まり頂きました諸先生方から、このようないみで日本の将来と宗教という問題をめぐって忌憚きたんなき御意見をうかがいたいと存じます。 ではデュモリン先生、司会をお願いします。

デュモリン  日本の将来と宗教といった問題について、まず第一に宗教は非常に大きな役割を演ずるということを私共は確信しております。 宗教なしに、あるいは日本の再建は不可能ではないかと思う。 そういう問題を考えるに当って、私はまず現代の宗教的情況を出発点として考えたいと思います。 今の宗教的情況と終戦直後の宗教的情況を比較してみますと、既に一つの変化が行われたと思われます。 戦争がすんだ直後には戦争の間にりたのんだものが壊滅したので、また個人的生活においても多くの人がショックをうけた結果、一般に宗教が強く求められたようでした。 また文化再建、世界平和という見地からも宗教の必要を多くの人が感じたようでした。 それが戦後三年以上った今では、かえって現世主義が流行はやってきた。 宗教的な救いを求めるよりも 現世的なものを求めて、そして政治、社会、経済などの面ばかりを強く考えて……つまり現世的態度をとって、いま流行のマルキシズムや唯物論にもそういう傾向が特に強くあらわれていると思う。 こういう傾向はますます大衆的になって、日本国民の大部分が、宗教に向うよりも極端な唯物論におちいってしまうのではないかと私共は心配しております。 この問題からすぐ日本の伝統ということも考えられますが、日本の伝統は深く精神的なものにつちかわれているので、もし全国民が全く唯物論に陥るとすれば、日本の伝統もまた非常な危険にさらされると思います。 こういう風に考えてまいりますと、現在の現世主義や唯物論に対して、宗教的な態度が根本的に要請されるのではないか、すなわち最高者、絶対者、神に対する態度、また人間の側から考えますと人間の精神的性格、ヒューマニズムといった問題が非常に大切だと思うのです。 花山先生は巣鴨すがもの御経験等からお考えになって、今の精神情況についてどういう風にお考えでしょうか。

二、巣鴨生活の幸福

花山  今デュモリン先生がいわれました通り戦争が終った頃は、日本が負けたという現前の事実から将来に対する希望が失われ、また物質的な生活からも、日に日に生活苦が強くなって、また生きて行くということ、その日その日を何とかして命をつないでゆくということだけがもっぱら考えられていたようであります。 さらに一部の若い人達は、外来の自由主義をいささか誤解したといおうか、勝手気ままな生活が今後に許された世界だという風なわけで、いわゆる現世主義的な方向に走って行く人が段々に多くなったようであります。 しかしそれにも限度がありまして、程度を越せば、そこにもあきたらず、人生については当然自分で充分に考えなければならないということにもなります。 そして二、三年も経てば、哲学とか宗教とかいうところへ落ち着いて、真剣に考えて来る人達も多くなったようにみうけます。 ことに最初から人生という問題、わけても戦争のために身心を打込んできた若い人達の間には、命も肉体も、すべてを捨てて特攻隊を志願した人もいるし、そういった人たちが故郷へ帰って静かに人生を考えてみると、もっと深いものがあるのでないかと考えて、現実的な面よりもかえって奥深い所に向っていった人たちも幾人かはあったと思います。 したがって戦争前よりも戦争後の人たちの中に、まじめに人生を考える人が段々と増えて来たように思われるのです。
 ところが、このたび関係しました巣鴨の拘置所だけについて考えてみましても、これまで絞首刑を宣告された人達も色々でありますが、——中には元の大将もあり総理大臣もあり、さらに低い階級の人達では小学校の二年か三年しか出ていないという人もあったし、年齢からいっても十八歳位から七十三才までの人達もあったのですが——こういう人達は、もともと、ほとんど宗教というものを考えてはいなかった。 それは明治以来の日本のあり方、教育の方法や政治そのものから、家庭内における習慣などがそうさせたのであって、ことに宗教は老人の問題で、若い者やインテリは、宗教なんぞは考える必要がないと、そのように今まで考えられて来たのであります。 そういう考え方でずっと長い間来たのでありますが、しかし宗教というものはそういうものではなかった、もっと人間の、人生の根本に触れたものが宗教であったということを、巣鴨へはいってやっと悟った人たちが多かったようであります。 というのは巣鴨にはいってみて、現実の社会上の地位だとか金力だとか、あるいは名誉だとか権力だとかいうものがほとんど意味をなさない、無価値なものであるということになると、丸裸の人間に立返ってみて、そこではじめて世の中のすべてのものが無力であるという事を自分自身で体得した。 そこで今いわれたような、絶対者とか、神とか、あるいは仏とか、こういう言葉で表現されている何物かにやはりたよらなければならぬという事になるのです。 殊に絞首刑を宣告された人になると真剣に死の問題を自分自身の問題として考えねばならない立場になって来るために、人から教えられるよりも自分自身でそれを掘下げて解決する道を工夫くふうし、そして安心立命に立返って行くというようなことが、これまで私の会って来た人達の姿でありました。 もちろん二年なり一年なりの刑を終えて巣鴨から出て行った人もあるし、調査の結果、無罪で釈放されて行った人もありますが、そういう人達にしても、巣鴨にはいったという事が一つの契機となって、自分自身これまで考えてもみなかった宗教を真剣にかえりみる結果になったという事は、一生において重要な意味を持ち、むしろ巣鴨行きは幸福であった、ここに来なければ恐らくそういった問題は一生触れずに終ったであろうに、というような述懐を私宛の感謝の手紙のなかにもらして来られるのであります。 巣鴨で得た精神をもって今後の日本を再建しなければならぬという力強い手紙やハガキをくれた人も随分ずいぶんあります。

三、ジェネレーションの差違

デュモリン  たしかに巣鴨の経験は非常に印象的だったでしょう。 戦争を経験した人はみな物を深く考えるようになったのではないでしょうか。 私もこういうことを度々みてきました。 戦争に行ってはじめて宗教のことを考え、宗教的なことを求めるような人が多くあったと思います。 その出征した人達のうちには少し年をとった人もあったでしょう。 以前は宗教を求める人は主に若い人達ばかりだったのですが——これは全く当然なことでしょう——若い人達は若い気持で生活の方針をたてようとして高い理想を掲げるので、それだけ宗教的なものに開かれているわけです。 しかし現在では戦争に行かなかった次のジェネレーションに属する若い人達の宗教に対する態度は、戦争に行った人達の態度と違うのではないでしょうか、私はそう感じるのですが、大学などでこういうことを御覧になりませんか。

花山  そうですね、戦争を経験しない人と経験した人とでは、やはり考え方が違うと思います。 経験しない人でも、現在アメリカからキリスト教が入って来て、それを一つの流行としてではなく、何等かそこに人生のよい価値があると考え、相当キリスト教に入る人が多いと見受けられますが、これは近代日本人としても幸福です。 明治以来宗教を知らなかった人達が、いずれの宗教を問わず、その中に人生の意義を見出すという生きかたを教わったことは、非常に幸福なことと考えています。 教壇に立っていても、そう感じます。

四、戦争を救うもの

デュモリン  中村先生も始終しじゅう若い学生達に接していらっしゃるので、そういう点をどうごらんになりますか。

中村  若い学生諸君は一般に新しい思想傾向なり思想運動に対して非常に敏感で、したがってその影響をつよく受けるようです。 ですから若いジェネレーションだけの宗教に対する態度を問題にすることは、けっきょく広く今の日本ないし世界の新しい思想傾向とにらみ合わせて考えなければならないと思います。 そこで問題は二つになるのではないかと考えます。 一つはまず現代の世界に対して宗教はどういう意味をもつべきであるか、さらに第二には、局面を限って、現代の日本において宗教がどういう意義をもつかということです。 問題をこの二つに分けて考えてみましょう。 こんなことは本日ここで申上げるまでもないことと思いますが、人間がこういうような運命に押込められてしまった以上、今後この人類の運命を救うものは恐らく宗教以外にあり得ないだろうと思います。 今までは科学の進歩、それに付随するあらゆる技術的ないし物質的経済的面における進歩が非常にいちじるしかったものですから、それに頼ることによって人類の幸福が将来ますます得られるというふうに世界の人々は多く考えて居ました。 ところがその結果は反対であって、むしろ今までにないような悲惨な戦争が到来しました。 そして今次の大戦の後の世界の精神的な気分と、この前の世界大戦後の精神的な気分とは非常な相違があると思います。 この前の世界大戦の後では、世界の人々の心は明るかった。 国際連盟のような機構が出来て軍備は縮小されるし、もはや今後戦争は起らないだろうと思っていました。 私達も少年でありましたが、あの当時は本当にもう世界に戦争というものはなくなると思っていました、またそういう風に皆が考えていたと思います。 ところが私個人の経験について申しますと、学生時代の終り頃から世界の情勢が険悪となり、ついに破裂して今次の大戦争となったのです。 そして戦争が終った後でも、人々の心は非常に暗い、これきり戦争は起らないだろうと思っている人は恐らくいないだろう。 この前には間違った見通しかもしれないが、多くの人はもう戦争も起らないだろう、ないし起らないようにすることができると思っていた。 しかし現在では、どうしても我々は暗い見透しを持たざるを得ない。 日本の運命も今後の世界情勢の如何いかんにかかっている。 日本人の努力だけではどうにもならないように思われる。 で、こういう様な運命をみつめて現在の青年層の間に虚無感とか快楽主義とかが表れて来ているのだと思われます。 先刻の御話の物質的な生活にのみ目を向けるというような傾向も、やはりそういうような一連の世界的な精神的気分がひき起しているのだと思うのであります。 この状況を救うには、もはやただ科学を進歩させるとかいうような技術的な物質的な問題だけでは駄目だめであります。 人類の生活に明るい光をもたらすことを望んで皆が宗教的な気持で協力しなければ、この危機を乗り切ることは出来ない。 そうでなければ人間は何時になっても救われることはないのではないかと思うのであります。
 それで今度は日本の問題になるのでありますが、世界がそういう気分にとらわれている時には、日本も当然それに動かされて来ます。 ことに今までの日本人は——日本だけを一つの単位として物を考える日本中心主義になれていましたが——この戦争で敗けて日本の歴史にとって例のない体験をしたのであります。 そこで偏狭な日本主義は打破され、日本人の目は世界に向くようになり、かえって反対に世界の時流に敏感になったと思われます。 若いジェネレーションは敗戦のショックによって過去の東洋文化に対して否定的となり、かえって全世界に通ずる気運の影響を受け、その上に先刻花山先生のおっしゃった普通の日本人が宗教心にうすいという傾向と、明治以来宗教教育がほとんど行われていなかったというより禁止されていたということ、そういう特殊事情が加わって、外国の人にはちょっと予想も出来ないような精神的状況を現代の日本の青年はていしているのであります。 現在の青年は大体はやはり唯物的でありますが、一部には唯物主義では人間は救われないということを痛感して宗教を求める動きも非常に強いようです。 ただそれは底の力となっていますから表面に表われない。 たとえば宗教心にもとづく実践も組織的行動となって表面に出てくるまでにはなっていない……

五、科学と調和する宗教

デュモリン  先生もいわれるように、現代は一つの終末、一つの失敗に終ったようです。 そしてその悲惨をもたらしたのは科学、人間の手から離れて逆に人間を支配するようになった科学です。 それにもかかわらず、今の若い人達は何よりも科学を盲信するのではないか。 もちろん科学、自然科学、純粋の学としての科学には価値が認められますが、唯物論に陥る世界観、宗教としての科学を盲信することが多い。 世界においては科学に対して大分懐疑的になっていますが、日本ではどうしてあれほど無批判に科学に走るのでしょうか。

中村  日本の青年の場合には、こういうことがいえると思います。 今までの日本主義者は日本の独自性を強調し、日本主義を精神主義だと称して、精神主義の名のもとに人間性を無視し汚すようなことを教え込んで来た。 そうして世界的普遍的な科学を軽視した。 その結果、戦争を始めて敗戦に終った。 したがってその反動としてどうしても自然科学を重んじなければならないと思うようになった。 そうして自然科学を精神主義と対立し、それを否定するものだと考えているのだと思います。

デュモリン  しかし自然科学は必ずしも唯物主義に導かれないはずです。 科学と宗教とは本当に調和的に合わせることができるはずではないか。

中村  本当はそうあるべきです。 またそのように感じている若い人も多いのです。 けれども一般の傾向としては、従来の思想指導が表面的には精神主義を標榜ひょうぼうしながらも、実際上は宗教抑圧を行っていたものですから、長い間のそういう考えかたに制せられて宗教独自の尊い意義を一般の人々はまだ認めようとしない。 そこに現在の日本の危機があるといえると思います。

六、日本人の宗教的習慣

デュモリン  日本の宗教的問題と世界の宗教的問題とは、いま中村さんもおっしゃったように密接に結ばれていると思います。 また他方においては伝統の問題も考えなくてはならないでしょう。 折口先生はいかが御考えになりますか。

折口  私共は現在、仏教者ではありませんが、仏教徒の家に育ちました。 特別に坊さんとは御仲間ではありませんでしたが、でも幼い時から寺にもうでる習慣がついておりまして、普通の青年達は寺詣てらまいりなどしない時代に私はまいっておりました。 単に習慣からでなく、やっぱり求める所があったからでしょう。 それも私達が最後で、特に坊さんの家庭に育った人達以外には、もう寺には詣らなくなってた時分だったのですから。 ただ今になってみると、新しい仏教の教養を持った人は別ですが、青年で寺詣りをする者はなくなったことと思います。 つまり宗教的習慣というものをただ今の日本人は失ってしまっている。 我々の関係の多い神道の方なども、これは先刻の中村さんの御話にもありましたように、出来るだけ神道を宗教以外に置こうとした長い間の政府の方針のために、神道は宗教的信仰の外において考えて来た。 神道に入っても特別な宗教的な話をするわけではなかったのです。 だからこの戦争がすんだあとに、若い者はキリスト教、特にカトリックの信仰の方に行く者が著しく目につきました。 そうした信仰に入らないものは、どこにも行かないで、放埒な生活をしています。 これが今日の青年です。 私ども恥じないでいられません。 いいものだということを知らない青年だから、そうなったので、気の毒なのです。 その昔の宗教生活の習慣を取返さなければ、これから先の日本を立て直して行く人達は救えないと思います。 稀には、教養の高い青年で堕落しない人がありましても、そういう人たちは文学とか藝術の方面に救いを求めようとします。 そういう人は真に幸福な人だと思います。 けれどこれは、その人自身が文学藝術の才能が非常に高くての話で、そうでなければただ遊惰享楽の生活になってしまうと思います。 そこでどうしても宗教的習慣をわれわれの社会生活に取戻さなければならないのです。 我々より若い人達ばかりの事ですが、どんどんキリスト教にはいって行きますのは、もちろん教義をじゅうぶん認め理解したからの事ではありますが、ほかに行くべき宗教がなくなってしまった気がするからでしょう。 長い間、日本の宗教史の上で誇りとしてきた仏教に対しても、若い者はあまり親しさを覚えなくなった。 どうしてもそこに宗教的生活の、形式上のよさだけでも知らしめて、いかにも輝いた美しい生活が出来るということだけでも深く思わしめたいと思います。 先刻も御話にあったように、前の大戦のすんだ後、国際連盟が出来ました時に、これは西洋人のもっている一つの美しい空想に過ぎないという風に、我々のような——日本人としては宗教心の深いものでも、そう考えました。 そんなことが実現できるだろうかと疑ったものです。 その点は宗教生活にれている人達はそういう理想をもつことが出来たのです。 その上この理想を実現することが出来ると信じる事が出来たのです。 我々非常に純粋な生活をして来たものでも、やはり出来そうもない、とこういう風に思いやすいのです。 つまり宗教心から来る永遠な理想が欠けているのです。 共産党などには、我々は何の同情も、もちません。 だが私達から見ると、あれは政治運動よりも宗教運動に似た方面があるように考えられます。 そういう意味であんなに強い情熱をもつことが出来るのでしょう。 我々日本人から見れば、あれも宗教的なものを持っていると思われるのです。 宗教を排撃しながら宗教的活動をしているわけで……

デュモリン  ああいう共産党的情熱は、伝統的日本人の宗教心と随分違うものではないでしょうか。

折口  すっかり違いますね。 すっかり違いますけれど日本人があれに対して感じる点、受取りかたから見ると、従来日本にないもの——宗教的な熱情で動いているような感じがします。 ああいう情熱は、かつて日本にあった踊り念仏風の感じがあります。

デュモリン  それは、そうでしょう。 日本人の宗教的な気持は伝統的に藝術等と密接に結ばれていたのではないか。 共産主義にはこういう藝術的なものはほとんどないようですね。 (折口うなづく)

折口  ともかく日本人は、どうしても生活の習慣として宗教を取戻さなければならないと思います。

デュモリン  でも習慣だけでは足りないのではないでしょうか。 ちょうどその共産主義的熱情に対して、本質的な基本的な宗教性、絶対者に対する、そしてヒューマニスティクな宗教性が必要だと感じるのです。

折口  もちろん習慣だけでは足りません。 だが習慣だけなりと、とり戻したい。 宗教生活の形式方面にでもふれさせたいと思うのです。 共産主義の人々に対しては別の方法がありましょう。 宗教神道の自覚を、もっと深め、近世的な解釈でない日本的純真な「ひゅうまにずむ」を明らかにしたいと思います。 いずれにしても西洋人の考えは宗教的根底を深く持っています。

七、教皇に挨拶する共産党員

デュモリン  日本の宗教問題は、中村さんもおっしゃったように、世界の宗教的状態と分離することは出来ないようです。 ラッサール神父様は戦後二年間も全世界を、ヨーロッパ全土も北米も南米も旅行していらっしゃいましたから、世界の宗教的状況についての御自分の印象を話して頂けませんか。

ラッサール  まあ一般的に申しますと、宗教に関する問題は、ある程度まで世界と日本はそれほどちがいません。 実はキリスト教でも洗礼を受けたり、祖先が信者だったからといっても、あまり実行しない人が相当おります。 極端な一例はフランスであります。 或るフランス人の話によると——確かかどうかわかりませんが——フランスでは、実際に洗礼をうけた人は今八百万しかいないそうです。 それに反して同じフランスでも非常に熱心なカトリックの信者のグループがあります。 これは特にインテリ階級にあります。 また大学生の中にもカトリック運動が非常にさかんです。 ドイツでは宗教心に大きな影響を及ぼしたものはナチスの思想です。 ヒットラー・ユーゲント等に入っていた若い青年の中には男性でも女性でも信仰の一切を捨て無神論者になった人がおります。 現在ドイツでは宗教心を起すのに最もむづかしいのは二十二、三、四、五の年齢の人であります。 この人達は、若い頃からナチスの教育をうけていたために一番むづかしくなりました。 またドイツの中でもかえって色々な苦しみのために戦後、宗教を深めた人が相当おります。 もちろん若い人達の中にもあります。 最近色々な大会がありまして、青年男女も相当熱心にこういう宗教的な会合に加わっておりました。 イタリアでは恐らくフランス、ドイツよりも信仰そのものはありますが、一方宗教に対して非常に無関心であります。 宗教的教育が足りないのですね。 一つの例を申しますと、ちょうど私がイタリアにおりました時に選挙がありまして、ローマ教皇の別荘のあるカステル・ガンドルフでも——ちょうどその時ローマ法王がおられましたが——選挙がありました。 そのカステル・ガンドルフ村で共産党が勝ちました。 そして共産党の代表者がちゃんと教皇様の所まで挨拶に来ました。 知らないんですね。 (一同笑声) 次にスペインに参りますと、非常に徹底しています。 フランコ将軍自身は模範的な信者であります。 重大な会議がある前に長い間一晩中でもプライヴェイト・チャペル(個人的聖堂)に入ってお祈りをすることがあります。 とにかくスペインでは非常に信仰が生きているという事実を始終感じます。 南米、アルゼンチン、ブラジルに参りますと、アルゼンチンでは、一般の人は信仰がありますけれど、自分の宗教について知らない人が多い。 時には多くの人が集って非常に熱心にお祈りする場合もあります。 御復活祭の前に聖週間がありますが、——その時にイエズス様の御受難を特に尊敬するのでありますが——その時ちょうど私はブエノスアイレスにいて、その光景をのあたりにして非常に感激いたしました。 しかしそこでも実行されていないことはやはり道徳的な方面です。 ブラジルでも状態は余り変らないと思います。 ブラジルでは主に日本人の間をまわり、日本のことを話しましたので、あまりブラジルの実状は観察しませんでした。 アメリカ合衆国では、やはり実際的なマテリアリズムが非常に強い。 実際に私の印象ですが、——間違っているかもしれませんが——アルゼンチンのブエノスアイレスの新聞雑誌などは、文化の程度が北米より高いように思えます。 たしかにアルゼンチンでは新聞や雑誌の程度は高い。 アメリカ合衆国はカトリックは以前よりも盛んで、相当徹底したという印象も受けました。 全体として考えて、世界的に宗教心に対して衝撃を与えたものは唯物論です。 極端な唯物論は認めないとしても、科学の流行が唯物論的教育を導き、実際的な無神論者も多くなって来ています。 実際的な無神論者とは別に宗教を攻撃するのではないけれど、全然宗教を無視している。 世界の色々な国をまわって気がついた所は、そういう唯物論的思潮に対して、我々カトリックの方ではますます熱心なグループがあって、昔と少しも変らず信仰が生きている。 まあ大体こういう様な工合ぐあいですね。

八、新しい宗教的な動き

花山  今おっしゃった世界の宗教に関する情勢ですね、カトリックの方は着々堅実に進み、また北米合衆国などでは特に盛んだということは非常に有難いことだと思いますが、プロテスタントの方はどうでしょうか。

ラッサール  プロテスタントの方では比較的少数の熱心なものがあります。 しかし全体としてはプロテスタントは外国において無宗教になるか、カトリックになるかというような危機に遭遇しているのではないかと思います。 アメリカではカトリックに改宗するプロテスタントが非常に多い。

花山  ドイツでは仏教の研究が盛んだということを何かで見たことがありますが、そういう傾向をお感じになったことがありますか。

ラッサール  そういうことは今度はあまりありませんでした。 しかしナチスのおかげで日本のことを研究することは非常に盛んになった。 例えばナチスはこういうことをいったそうです。 日本を維持しているのは日本精神で、国民が宗教がなくてもああいう精神で国体を維持している、だから宗教は必要ないではないか。

中村  だからナチスは日本と同じように誤りを犯したので、日本の軍閥が宗教を抑圧したのと同じことですね。 戦時中には日本の仏教諸宗派の開祖の遺文がそのままのかたちでは出版できなかった。 ウルトラ・ナショナリズム(超国家主義)と矛盾する部分は全部削除される、こういうことがありました。

ラッサール  ドイツでは軍隊よりもナチスの問題です。 軍隊の中には割合にしっかりした信者が多かった。 カトリックばかりでなくプロテスタントの方もやはりそうでした。

増永  ハンブルグでは仏教会がつくられ、またパルミー博士という人が中心となって仏教の研究、あるいは信仰の指導をしましてね、二万人ほどの団体が出来ているという事です。 それはドイツの現状が非常に苦しいので、仏教思想がその苦を克服するに大きな力をもっているためでしょう。 仏教に対する研究熱は相当高まっているということを聞いています。

ラッサール  まあそういう所もありましょう、よく存じませんが。 結局人間は宗教がなければ生きて行けないという証拠になりますね。

増永  たしかにそうでしょうね。 宗教は生命そのものの要求だからです。

ラッサール  日本では国民が宗教心がないということは一面からはいえるかもしれませんが、他の面からみると日本の宗教的意欲は非常に強いともいえる。 というのは、自分では信仰をもっていないけれども、宗教がなければ国民道徳は成り立たないという人が多い。 まあ一つの矛盾ですが、自分が実行しないからそういうこともいえるのかもしれませんが、その宗教ということは別問題でも、宗教なしに道徳生活はできないということ、これは本当ですね。 またもう一つは迷信を信ずる、新しい宗教がおこるとすいぶん人が集ってくる、結局これも一つの宗教心の表れには違いありません。 これはつまり人々が迷っているからなのですね。 宗教の問題でもインテリは一番難点が多いかもしれない。 インテリは外国と同じに学校でも唯物論的な無宗教的な教育を受けて、段々宗教の根本がなくなる。

中村  最近の新しい宗教運動というものは果して喜ぶべきものかどうかは問題だと思います。 このごろ色々の宗教が濫立らんりつして、それを人々は類似宗教とか新興宗教とか呼んでいますが、ほとんど全部が現世利益を唱えているのです。 たとえば病気が治るとか、お金がもうかるとか。 そういうことをかかげた宗教が幾ら盛んになっても、それは宗教の退歩か進歩か、疑問だと思います。 宗教的なものに近づけるという意味では進歩かもしれませんが、しかし昔の日本には、もっと良い真の宗教があったと思うのです。 それを滅してしまって、今ああいうようなものがはやるということは、日本人としては大いに考えなければならないと思います。 日本でも仏教の盛んな地方の農村には宗教の伝統がしっかり残っています。 殊に諸宗派の中でも浄土真宗と日蓮宗は、寺院と信者の関係が密接して感化がよく行われていて、したがって信仰心がずっと養われて、よく続いています。 けれども、信仰の弱い地方、殊に都会では宗教は表から姿を消したようになっている。 しかし半面、各々個人の心の中にはいってみると、心の不安と煩悶はんもんにたえかねて、宗教を欲する気持は実に根強いと思いますから、そういう人達の間にも今後、宗教というものが新たに問題になってくるのではないかと思うのです。

デュモリン  それが都会のインテリや或いは学生ならば、そういう信仰心が本当のものになるためには、どうしても合理的なものでなければならない。 そうでなければ宗教を把握することは出来ない。 更に……

九、仏教とキリスト教

デュモリン  宗教が民衆的になり、本当に国民生活の上に深い影響を及ぼすことは非常に大きなことではないかと思うのです。 宗教の偉大な使命はそこにもあるでしょう。

花山  そこでですね、仏教は民衆的であって、広いものですね。 例えば親鸞しんらんあたりは、「自然法爾」という言葉を使っている。 「法爾ほうに」ということは、法のまにまにということで、自然にそって法に従おうというような生活態度なのですね。 自然にそって法のままにということは、結局は絶対者ですね。 絶対者のまにまに自分が生活行動をしてゆく、そういう行動に現われているのです。 自然というけれども、我々の方ではこれをジネンと発音していますが。 だから大勢の人々を、少しでも多くの人間を対象とするという点においては、それはキリスト教よりも、もっと広いと思います。 何故かというと、これは一つの比較になりますけれども、神の前にざんげをする、罪を謝する、祈りをするという条件をさえ、もう除かれてしまっている。 すべての人間を——一切の神や仏やすべてのボサツたちが救うことの出来ない、みんなが捨ててしまった人間をめあてに拾いあげてゆく、そこが仏教の、阿弥陀仏あみだぶつ信仰の絶対性が認められている点です。 ここに罪を懺悔ざんげする、謝るということの出来ない人間を誰が救うかという問題であるのです。 その様な人間に対してまでも、すべて手をひろげて、だき入れて行くという所に、非常に広い立場がとられているわけです。

デュモリン  私は仏教、特に阿弥陀教のよいところを決して否定するつもりではありません。 キリスト教の側から特に阿弥陀信仰における純粋に宗教的なところは、たびたび認められたわけです。 先生もご承知の通り、キリスト教と阿弥陀仏教との歴史的関係についてもいろいろと問題があります。 歴史的にはいろいろ困難な問題がありますが、私達も感じるのは、阿弥陀教の信者達は阿弥陀仏に対して本当に信頼の心をもって、信仰の心をもって、そして阿弥陀仏を最高者とする点で、これは人間本来の宗教的な欲求より出るもので、その点でキリスト教信者の神に対する態度とよくにているところがあります。 しかし現代的に考えますと、前に宗教の合理性などといいましたが、それは宗教も最後には哲学的に十分に基礎づけられたものでなければならない。 哲学的な基礎づけが望まれるのです。 つまり正しい健全な哲学を土台としなければなりません。 この意味でカトリックでは自然的な神認識を説くのです。 そして自然的な人間学をも説くのです。 そして人間の自己意識、人間の精神力、人間の不滅な霊魂などのことを、やはり信じるだけでなく、これは哲学的認識をもって認めて、そして宗教的態度の基礎……

花山 それでですね、阿弥陀仏というのは、その原語からは、御承知のように、量りなき命と量りなき智慧ちえということなので、この量りなき命と量りなき智慧ということは、人間すべての理想であり目標でなければならない。 死なねばならないもの、モータルなもの、そしてこのミゼラブルな人間、有限の人間に対しては、やはり無限の命と無限の智慧というものが最後の理想郷でなければならぬ。 そこで仏教では、お釈迦様が悟りを開いて仏陀になったという事実から出発しますため、人間が悟りを開くという点は、どうしても仏教である限り否定する事はできない。 これは仏教のたて方がほかのと少しく違うところです。 そこで阿弥陀仏もまた仏教の根本原理である因果いんがの法則の上に立って構成されていると考えてゆくのです。 だから当然、超自然的な阿弥陀仏というような考え方ではない。 いいかえれば、法を人格的にみた法身仏という考え方が裏づけられているのであって、ここに阿弥陀仏もキリスト教でいうゴットとはよほど違ってくるのです。

デュモリン  そしたら阿弥陀仏を創造主としないでしょうか。

花山  創造主じゃないんです。

デュモリン  そして人間は結局はどういう風にして出来て生れてきたでしょうか、 この世においては?

花山  それは、お釈迦様の教えられた無明業むみょうごうという、根本無明こんぽんむみょうのはたらきから説明します。

デュモリン  しかしその根本無明といいますと、何か非合理的なものではないでしょうか?

花山  非合理的ではない。 自分自身のつくった業力ごうりきの結果と説くのだから、最も合理的なもの、これほど合理的な教えはない。 自己の最初までさかのぼっていって、真理を真理として領得りょうとくしなかったことを根本無明という。

デュモリン  しかし無明はどうして原因になることが出来るでしょうか。

花山  原因とは?

デュモリン  やはり人間の存在の原因。

花山  それは、仏教の十二因縁じゅうにいんねんという因縁果いんねんかの原理に説いてある通りです。

増永  それは、相互の全体関係を説く縁起えんぎですね。

花山  因縁によって万象が生起しょうきするということを説くのです。

増永  それで仏教はですね、そういう宇宙人生の起源、オリジンは説かないのです。 そこが違う。

デュモリン  それでその点では私は満足出来ないのです。 そこの原因を教えていただきたいのです。

増永  そこに、そのキリスト教と仏教の差があるのです。

デュモリン  創造主たる神を信じる、神を創造主とみることは結局、宗教の最も根本的なものではないでしょうか。

増永  そういうクリエーターとしての神を認めない。

デュモリン  しかし人間は宗教において創造主を一番求めるものです。 私はいつでも感じたのですが、仏教を信じる一般の人達も、阿弥陀を拝む人達も、阿弥陀を最高者として、そして智慧と命として、結局は創造主としても考えるのではないでしょうか。

花山  いや、それは結果だけをみると、創造主のようにみえるかもしれませんが、なり立ってきた仏教の理論、教理からいうと、そういうことではないのです。 ただしぼりにしぼったエッセンスだけを呑み込むと、そういう風にうけとれるかもしれませんが——

増永  そのエッセンスのみを表面に出したのが鎌倉仏教の特長なのです。 たとえば浄土教でもですね、やはり阿弥陀仏のみの名号みょうごうをとなえ、感謝の念仏をする。

デュモリン  それは私よく知っているのですね。 しかし……

増永  とはいえ、そういう簡単なようなことの思想の背景には非常に深い、いま花山先生のおっしゃったような深い原理があるのです。 そこに鎌倉仏教の大きな特長がでているのではないでしょうか。 そこにまた普遍性があるのですね。

十、神の問題

デュモリン  しかし一般の人はどうしても仏教をその表われるものから、花山先生のおっしゃるエッセンスから判断して、宗教として仏教をそれ以外に判断することはできない。 仏教の哲学的理論は一般の人にはわかりにくいものであって、結局一つの一元論になるでしょう。

増永  ええ、結局……

デュモリン  一つの汎神論です。

増永  いや汎神論ではない。いま仏教をパンテイズム、汎神論とよくいいますけれども……

デュモリン  でも一元論だったならば、結局パンテイズムでしょう。

増永  いや、むしろ万有在神論(Panentheismus)といった方がよいでしょう。

デュモリン  まあ、そういってもよい。 けれども、人間は宗教として、どうしても拝まなければならない。 そして何か対立を意識する。 そこは、私達は創造主を認める、また信じる。 自分も創られたもので、創造主との対立を認めるのは、人間の理性に一番かなうものではないでしょうか。……

増永  ええ、浄土宗でもそれは認めるのです。 ただ、阿弥陀仏と我々凡夫ぼんぷとの関係の問題なのですが……

中村  ただ、仏教では仏を世界のクリエーター(創造主)とは認めない。 もしも世界のクリエーターだということを認めますとね、テオディツェー(弁神論)の問題が必ずおきてきます。 つまり全知全能の神が何故にこの罪悪と不幸にみちた世界を創り出したのであるか。 それは神の全智知全能性をそこなうことになるではないか、という疑問が起るのです。 これを解決せねばならぬ。 仏教ではクリエーターを認めないから、したがってテオディツェーということは問題にならない。 カトリックのドクマティークの方ではテオディツェーの問題をどう解釈されますか。

デュモリン  テオディツェーといいますと、つまり創造主たる神の認識の問題です。 創造主たる神を認めることは私達にとっては一番根本的な信仰です。 皆それに結ばれています。 人間の道も、神より、神への道として、神はその始めであると同時に、その終局の目的であります。 そこに人生の意味という問題の解決があります。 そしてまた、花山先生がおっしゃった罪の意識ということがあります。 というのは人間は倫理的生活において、自分が罪を犯すものであり、すなわち、自分が自由意志濫用らんようして、自己の良心を神の掟に背いて、悪いことをするなど、こういうことを意識するのです。 つまり罪は意識的なものであるから、人間も意識的に罪をざんげしなければなりません。 花山先生が、阿弥陀仏教ではこのざんげなしに、ミゼラブルな人間が救われるといわれましたが、キリスト教ではざんげ、福音にあるメタノイア、すなわち心を悔い改めることは必ず要求されるのです。 それは結局キリスト教のペルソナリズムのためであります。 そして罪というものは神の対するものであって、神にゆるしてもらう。 キリスト教は本質的に創造主たる神を信ずる教えであるとともに、救いの教えである。 神は憐み深いものでありまして、人間に罪をゆるして下さる。 神の御憐みによって、かくして痛悔つうかいする人間は救われる。 説明は非常に簡単で不足なところがありましょうが、実はここでキリスト教の根本的な点に触れたと思います。 人間は人格(ペルソナ)であり、ペルソナとして不滅な霊魂と精神力とともに、自由意志を与えられたのであります。 自由意志とは善悪に対する選択をいみし、その選択をもって人間は自由に自己を決定するのです。 神は決して悪の世界をつくったわけではなく、神につくられたものは、聖アウグスチヌスも強調するように、ことごとくよいものであります。 神を悪の原因、具体的にいいますと、罪と苦難と不幸の直接の原因とするならば必ず矛盾が起り、ついには神を否定するようになる。 現代の無神論はよくこの道をたどるのです。 われわれが信じるように、罪は人間の自由意志の濫用に他ならない。 そこにキリスト教は原罪の教えを説くのです。 それによると自由意志を与えられた人間は、その自由意志を濫用して罪を犯し、秩序と調和を破り、そしてはじめて悪がこの世に生じたのであります。 原罪の教えなしにテオディツェーの問題、悪の問題を到底解決することはできませんから、パスカルのごとき宗教的天才は原罪の教えを自分の人間観の中心となし、そこから人間における偉大さと惨めさを説明し、全能全知なる神の無限に完全なる御力をも讃美するのです。

花山  さきほど哲学的に裏づけられた宗教でなければならぬとおっしゃったから、それでいわゆる阿弥陀仏の信仰というものは仏教の広い哲学を背景として生れ出た救済の宗教であると申上げたので、一見同じように見えても実はキリスト教と仏教との間の信仰が違うんだということを申し上げたいと思ったのです。

十一、日本の伝統を見直すために

編集者  現代の宗教的情況をめぐっていろいろな観点から見て頂きましたが、この辺で更に問題をつき進めて、日本の伝統をいかに考えていくか、それと日本人の宗教性のこと等について、ひろく東洋と西洋といった問題にまで入って論じて頂きたいと思いますが。

デュモリン  宗教は世界を背景とするものであり、そして普遍的なものであります。 特に宗教の根本的な態度——絶対者、最高者に対する態度などを考えますと、どうしても宗教の普遍性を認めなければならないと思います。 人間の平等を認めて——これは結局あらゆるヒューマニズムの根本でしょう。人間性において人は皆、平等なものです。 —— しかし他方において宗教は深く国民性にも基いているものです。 ですから日本の宗教性について、さらに日本の再建、将来について考えますと、日本人の伝統、国民性をも大いに考えなければならないと思います。 最近ますます日本的なものがもう一度研究され見直される傾向があります。 終戦直後は敗戦のショックのために、当分の間、日本的なものが影をひそめたようでした。 けれども偉大な国民は、自分の伝統を忘れることは出来ません。 伝統はその生命の流れであり、伝統なしに大きな国民が生きることは出来ません。 最近、伝統的なもの、日本の歴史や文学の研究が再び着手された模様ですが、しかし私が感じるのは、正しい研究の方法、研究の態度は未だ不分明です。 日本的なものを世界を背景として見て、普遍的な範疇はんちゅうの中に入れ、けっきょく人間の理性的な普遍的な言葉でもって表現が出来るはずではないか。 ここに私は日本の伝統の学的研究の課題の一つを見るのです。 なお日本の伝統における宗教的な流れをも正しく評価しなければなりません。 その場合、ギリシャ思想との対比はきわめて有益だと思います。 ギリシャの伝統のうち相当な価値あるものがあり、それはヨーロッパ・ヒューマニズムの基底に流れこんでいますが、一方キリスト教以前のギリシャ哲学においては、自然主義も合理主義も擡頭たいとうして、矛盾するところも多々あります。 同じようなことが日本の伝統にあってもいわれるのではないでしょうか。 たとえば国学の自然主義的な傾向はちょうどギリシャにおける強い自然主義的な流れと比べることもできます。 万葉集の時以来、特に国学者になると、賀茂真淵かものまぶち等は随分自然主義的な気持で物を考えている。 しかし別に非道徳的ではない、虚無主義的なものではなかった。 同時に日本の伝統には合理主義も現われています。 たとえば国学者は儒教を攻撃してよくりくつと非難していた。 もちろん自然主義も合理主義も結局一方的なものであって、円満な宗教性をなすものではない。 このようなことを考えてみると、日本の伝統における宗教性、その長所も短所も把握して、それを調和的に発達させることは今後の課題ではないかと思うのですが。

折口  我々の先輩である国学者達は、日本人の生活の原理であるものを追求して、日本の古代の生活の研究にその証左を得ようとしたわけなのです。 近代生活は誤りのように見えるけれども、実は古代においてはこういう輝かしい精神をもっていた、こういう弁解につかわれてきたことが時々見える。 だが逆に、私は古代を研究して、それをば近代あるいは現代の生活、文化すべての説明に役立てるのが本当だったと思って来ました。 我々は長い間、国学で育て上げられてきました。 けれども、どうも私などは生れたのが一番おそいものですから、自然、国学者の先輩達と態度が違っておるのです。 先に申しましたような、つまり日本人が宗教の習慣を失って、どうして暮して行けるのだということになるのですが、けっきょく宗教習俗は大半失っているけれども、宗教的な残存物によって、根強く生きておった、言うまでもなく年中行事とか民族の慣習になって残った過去の宗教の断片ですね、それでつまり日本人の生活が、どこかにやはり宗教的な匂いをもって続いてきたというわけ。 そのほか仏教がともかく続いてきて、そのために保存せられたものが相当量ある。

デュモリン  日本の自然観において、何か宗教的なこともあるのではないでしょうか。 「まこと」などは……

折口  日本の自然観と言っても、ともかく我々はもっと考え方を組織し直してこなければいけないのではないか。 江戸時代の国学者のうちでは例えば契沖けいちゅうなどという人が出ましたが、この人は坊さんであったから、国学以外に置かれたと国学者以外の人はいいますが、そんなことはないのです。 つまり契沖が国学者の四大人しうしの中に入らないということは、契沖は倫理観を中心に置いていなかった、日本の道徳を問題にしようとしなかったのですね。 契沖の後の国学者仲間には、倫理を対象として研究してきた、国学の四大人等といわれている人達は、我々は一番尊敬していますが、その手落ちだと思うのは、宗教的な研究をしなかったということですね。 つまり神というものが歴史的な存在であって、我々と、我々の本家と、それから神、こうずっと持続しているように考えていたのですが、もう少し宗教的に反省したら、よかったと思います。 (デリュモリンに向って) あなたのおっしゃるその自然主義的宗教というのは……

デュモリン  まあ例えば「天つちの心のまにまに」など、何か宗教的な気持があるのです、自然にまかせて……そして同時に倫理的な秩序も認めたのでしょう。 国学者達は少しも頽廃的たいはいてきではなかった。 何か健全なところを認めている。 だけれどももちろん不完全なところもありますね。 折口先生のおっしゃったようにあまり信仰的でないということは、神についての考えがはっきりしないからです。 なお自然主義だけでは人間のパーソナリティは充分に発達できません。 けっきょく私が日本の伝統に一番かけているところはパーソナリティの意識だと思うのです。 倫理性が非常に強いもので、人間性への道が開かれてはいる、けれども倫理性と宗教性とそして藝術性等をすべて合わせてまとめて一つにして一つのヒューマニズムを作るというところまではいかなかった。

折口  ともかく我々は一度態度を変えてこなければならぬと思っているのです。 私などは及ばずながら、別のところでやってきていたのです。 それが皆の通らねばならぬところになって来たようです。 例えば倫理的な方面にしても、国学者の研究が、直ちに、待っている人によって迎えられて、つまり日本人が道徳的な生活をしていた、道徳的生活から一歩も出なかったというようなことの簡単な証明に役に立ててしまうのですね。 実はもっと自由な生活をしていたようです。 あなたのお話はアニミズム研究といくらか関係しているのではないですか。

デュモリン  私はいま主に江戸時代の国学者などを考えたのです。

折口  今までの国学者と我々と違うところは、今までの国学者は文学を通してみたので、昔の伝えが非常に理想化して伝わっているのですね。 文学の美麗な、美しい言葉として。 それをもっと生活的に考えてゆかなければならない。 「大君は神にしませば」などということが戦争中はやりましたけど、何故「大君は神にしませば」などというかというと、これは宮廷の饗宴があると、その時に天子を讃美するために「大君は神にしませば」などという言葉を詠い出して、その後に引続いて何とかいう風に続いてゆくのです。 「大君は神にしませば」という一つの言葉によって万葉でも八首歌があります。 それは文学の一つの表現なのですね。 本当に神だと信じておったかというと、これは問題になるのです。

デュモリン  本当に文学と宗教とをあんまり区別しなかったでしょう。それで宗教が非常に文学的な匂いが強いのです。

折口  古代の人が文学的であり宗教的であることは事実ですけれど、今までの学者が、古代の人が作った文学的作品によって道徳や宗教そのものを見て来たことは私は間違いだと思うのですね。 むかし偉い学者が我々の先輩にありますけれど、やっぱりその点で少し見当違いもあるでしょう。 その見当違いが、つまり世間の普通の生活をしている人に、実行家の人達に利用されている心配があると、こう思うのです。

デュモリン  そのためにも結局、宗教的な影響は社会的にやはり不十分だったのではないか。 日本の社会生活を見ると、国学者の影響は——運動をおこしても、一般民衆の上に及ぼして影響はどうだったでしょうか。

折口  国学者から宗教家が出たことは、ずっと江戸時代の末でも事実は少いのです。 国学の系統の人が神道でも信仰を樹立せねばというので、教派の形をとった倫理教式のものもあることはあった。 つまり今日残っている宗派神道の中でも国学者的伝統を持ったものは殆どないと言ってもよいのです。 大てい、ごく自然のおそれ、陰陽道風の方位神ほういじんの畏れ、いわゆる金神こんじん信仰などから出発して、それで宗教的な自覚へ走った。 みな同じことですね、恐怖心から出発しているんですけど。 で、江戸の末期に生れた自由信仰、あるいは明治になって生れた所属不明の宗教的なものは、何宗にも入れることの出来ないので、仏教諸派へも入らないものだから、神道に入れようかということになったのが多いのです。 つまり日本で近年出来たものだから神道だなどと考えられたものがあったのです。

十二、東洋と西洋

編集者  中村先生は「東洋人の思惟方法」を書いておられますが、こういう問題について、特に東洋と西洋といったいみで、思惟方法の点から考えてみていかがでしょうか。

中村  私はあの本のつづきの校正をすませたところでして、まだ結論を発表していませんが、簡単にいえば、東洋思想全般に一つの有力な傾向というものは認められるかもしれませんが、あらゆる思想を包括するような東洋思想という明確なものはないと思うのです。 やはり東洋思想の中でも、種々な思想体系のうちには矛盾、抗争があった。 ちょうどそれは西洋思想においても、全体として一つの傾向はあるかもしれませんが、キリスト教も唯物論も何もかも収めるような包括的な西洋思想というものはない、それと同じではないかと思うのです。

デュモリン  中村先生の「東洋人の思惟方法」を拝見しまして、私は特に主体性の問題を非常に面白く思いました。 印度哲学にも自己意識、ゼルプスト、アートマンのような思想があり、同時に精神力もある。 しかしやはりパーソナリティを把握するまでには到らない、こういう風に考えたのですが、そう結論していいでしょうか。

中村  ただ今おっしゃったこと多少連関があるかと思いますが、西洋人の思惟においては、唯物論でもキリスト教でも、西洋思想一般としては、わりあいに人間の個別化(differentiation)の面を強調する傾向がある。 それに対して東洋の思想はインテグレーションといいますが、自他不二、自他一体になることを強調し、それを理想とする。 これは先刻のお話の絶対者の把握のしかたにもあると思うのです。 まあキリスト教と仏教との差違という根本問題は、この短かい対話でははっきりさせることはできませんけれど、キリスト教では、神と人とは絶対に離れている。

デュモリン  絶対に離れたものでもありません。 人間は神に造られたものであり、神の似姿であり、神の子であり、そして神との一致に到るけれども神には絶対にならない。

中村  そこが違うのでしょう。 阿弥陀仏に救われたものは、どんな悪人でも、阿弥陀様と同じ仏様になれる。 そこに仏様の絶対の慈悲がある。 阿弥陀様の慈悲にはへだてがない。 どんな悪人であっても救って下さる。

デュモリン  これは結局モニズムの考え方ですね。

中村  モニズムといっても、スピノーザとかヘーゲル等のモニズムといわれるそれとは違うと思うのですが。 だから簡単にモニズムといわれることを受入れていいかどうかは疑問です。 何とも返事をするわけにはゆきません。 例えば阿弥陀様と我々凡夫とでは、仏が罪悪の凡夫としての我々に向っている限りにおいては対立がある。 救って頂いたその終局においては隔てがないのですから。

増永  それは対立的統一である。……

デュモリン  哲学的に、思想的にみると、一番根本的な違いはパーソナリティの観念の中にあると思うのです。

増永  パーソナリティということは第二次的なものではないかと思うのですが。 もっと根源的なものがあるのではないか。 それだから、アウトワードに見てゆきますと、やはり科学的な客観的な見かたになり、物を対象とする学問は科学ですから、西洋では科学が発展する。 そういう傾向があるわけです。 それに反して東洋の方ではインワードに見て行く、これは自己を深めて行く、そういう主体的な面が非常に強まってくる。 そこでは宗教的な我々の生命、レーベンというものを問題としてゆくわけであるから、宗教的になる。 また広い意味で哲学的になる。

中村  「自己を深める」という話は東洋思想全体を通じてはいうことはできないでしょうけれども、印度哲学から来て仏教に到って完成した、この思想の流れにおいては、はっきり特徴として指摘できると思うのです。 ところがそれがキリスト教の場合は別として、ギリシア哲学の場合にははっきりしていない。 その問題がギリシア哲学ではとりあげられていない。

デュモリン  私もそう思います。 ギリシア精神は非常に高いものであり、パーソナリティ、深い自己意識が全然ないということはないのですが、まだ決して充分ではありません。 そして東洋精神の中で最も魅力のあるもの、神秘的なところは、つまりインワードへの向きです。 仏教においてもそういう神秘的な精神がよく表われてくる。 私は仏教についての知識は浅いものですが、私にとっては仏教は根本的に一つの神秘思想です。

花山  仏教のうちには神秘的な傾向のものもありますが、同時に合理主義的なものも非常に強い。 だからただ神秘的だけで仏教を片付けることはできないでしょう。

中村  今のお話は反対だと思います。 シュヴァイツァーが「世界の宗教とキリスト教」という本を書いていますが、その中でキリスト教は非論理的な宗教だ、ところが仏教などは合理的あるいは論理的宗教(logische Religion)だといっています。 決して仏教に合理性がないなどということはいえない。 むしろ反対に西洋の学者がそのように合理性を認めているほどなのです。

デュモリン  私が今いったのは神秘思想と合理性を対立させるつもりではないのです。 そのいみで問題をとり上げたのではありません。 キリスト教においても非常に強い神秘的思想があります、特にカトリシズムにおいては。 カトリックには内面的生命を深め、神秘的境地に達した聖人が数多くいるのです。 シュヴァイツァーの見方は相当プロテスタント的で、理性を超越するものへの信仰を非合理的といい、プロテスタンティズムには神秘的なものがほとんど欠けていますから、神秘的生活に対して充分な理解をもっていないようです。 カトリックとして考えますと、神秘的生活は理性に反するものではなく、一つの大きな価値をもっているものです。 宗教において神秘的なものは非常に価値があるものです。 私は仏教は全部神秘思想だけだとはいいません。 しかし一応神秘的な流れが仏教の中にあるのですね。 それは浄土仏教の中にも、阿弥陀仏教の中にもあり、禅においてなおさら強いですね。 私達はむしろそこに一つの価値をみとめる。 神秘的なものの中で、精神的なもの、霊性の把握が強いものですから、その点で唯物論とは全然反するものじゃないかと思います。

十三、共産主義とは

花山  そこでね、仏教は共産主義を全面的に認めることはしませんが、やはりそこに一面の真理は認めます。 仏教というものは、固った一つの形体ではなく、たえず流れてゆく流動性をもったものですから、いかなる思想でも充分に包容しうる立場をもっております。 仏教経典の中には、時代的には非常にかけはなれた雑多なものが入っております。 印度だけでなく、中国から、日本に出来たものまでも包まれています。 将来ますます包容していくでしょう。 ところがプロテスタントとカトリックとの対立ですが、最近プロテスタントの或る牧師の方で共産党に入った人があるそうですが、これはプロテスタントにして始めて可能なことで、カトリックでは困難ではないかと思うのですが。——

デュモリン  私達は神を中心とする信仰をもっていますから、共産党が闘争的無神論者であるかぎり、これと妥協することはできません。

花山  ただ人間の「平等性」ということを強調する面、この点だけで。 もちろん経済だけに立脚して共産を主張する点はとりませんが。

デュモリン  私が思うのでは、キリスト教は歴史において最初に、この平等性を本当に認めた。 それは私達の根本的な信仰です。 人間は平等であります。

中村  仏教徒としても一言あります。 元来人間の「平等」ということは、仏典の中ではじめていわれた。 西洋では別ですけれど、東洋では仏典ではじめて言われたのです。 仏教によれば、人間はすべて平等です。 昔の印度の社会では、バラモンとか武士とか庶民とか奴隷とかの階級の区別があった。 ところが仏教はこれを否認してしまった。 仏教によると四姓平等で、結局何人も皆救われる。 精神の面において平等であるにとどまらず、世俗的社会的な側面においても平等でなければならぬと教えるのです。

花山  それで阿弥陀仏にしても、同じく仏もわれわれもみんな平等になるのですね。 ところが西洋の思想だと、どうしても階級が残る。

デュモリン  われわれキリスト者は、イエズスの教えにもあるように、元来人類、人間性の根本的な平等を認める、信じるのです。 いわゆるブルジョワ的社会は、日本ではどういう風にして起ったか別ですが、ヨーロッパでは決してキリスト教によって生れたものではなく、むしろキリスト教を排撃した近代の個人主義や自由主義の産物です。 この平等はまず第一に霊的精神的な平等でありますが、当然社会的平等に導かれるものです。 我々がいう人権は結局人間全体を包括します。

中村  仏教とキリスト教とは、その点に関しては非常に共同し得る可能性が大きいし、それからまた実践においても共同していいのではないかと思うのですが。

花山  そこで今おっしゃった将来性の問題なのですが、仏教においても欠点があり、キリスト教においても更に研究してもらう点があると思うのです。 西洋の人は大体において仏教についてはこれまで深い認識がないと思います。 それは過去の東西の歴史がしからしめたわけです。 われわれもキリスト教については、これまで深い研究をしていないわけなのですが。 ここでお互いによく話し合うなり、研究しあうなりして、将来においては確固とした宗教の協調が必要だと思います。 そこにおいて真実の平和を建設してゆきたいと思います。

デュモリン  そういう場合にやはり精神的なもの、霊性を認め、最高者を認め、それに対する敬虔の念をもつということ、それが根本的なことだと思う。 (一同肯定)

花山  ところがキリスト教で説かれている最高者も、仏教で説明している最高者も、要するに文化の歴史を背景にしているから違うように見えるけれども、結局は一つだと私は思っています。 そう信じています。

中村  つまり仏教ではもとからこういうことをいうのですね。 「世間の人々は我と争うが、我は世間と争わず」、いろいろの世間の哲学思想は互いに対立していて、アンチノミーに陥っている。 けれども仏教は対立している諸思想のそれぞれの成立し得る根底をみとめている。 それらを公平に見くらべて正しきをとるという立場をとっている。 だから、よしんば仏教がある時代に一つの思想をたまたまとっていても、もしそれが悪いということに気がついたら、それをすててしまっても、仏教をそこなうことにはならない。 したがって他の思想的立場をとっている人のいうことに対しても、つねに謙虚な心をもって対するということがあるわけなのです。

編集者  ところで現実の問題として考えましたときに、現在の世界にあって、唯物論的思潮、共産主義運動に対して最もヴィヴィッドにたたかっているのは宗教の陣営ではカトリックだと思います。 宗教における社会的実践というものが大分問題になっていますが、この点において仏教では現在そういう力を失っているように私共門外漢からはちょっと見えるのですが。 キリスト教、特にカトリシズムでは先刻、デュモリン先生のいわれたパーソナリティというものが実践の面にも生きて、世界の諸国で社会的な実践運動にも力をいれている。 仏教の方ではこういった点、いかがでしょうか。

花山  仏教は生きていないと見るのは、外形だけであって、たしかにそういう人もあろうと思うし、実際には相当あります。 しかし真実に仏教に徹した人は、何もそこに矛盾を感じておりません。

編集者  矛盾を感ずるというのではなくて、積極的に建設するという面でのことをいうのですが。

花山  建設はして参ります。 仏教では、決して両極のいずれかに走るということはありません。 中道を行きます。 仏教は、キリスト教のよいところも、マルキシズムのよいところも、いずれをもとって行くと思います。 それが流動して止まぬ大乗仏教の特徴ですから。

デュモリン  マルキシズムのよい点はどこにあると思われるのですか。

花山  先刻お話しした人間の「平等」性を強調する点、この点は仏教もこれを認めると思います。

デュモリン  それはマルキシズム特有のものではなく、むしろ先刻申したように、キリスト教が世界にもたらした思想です。 キリスト教の教えは西欧ヒューマニズムの基底をなしていて、キリスト教は人格性パーソナリティとともに、はじめて人類の平等をといたからです。

中村  マルキシズムが現実の社会的実践において一つの独裁主義となっている限り、これを認めません。 またマルキシズムが人間の高貴な精神性を否定するという傾向、これも仏教では認めません。

増永  唯物史観、階級闘争、財の共有等の説は仏教の世界観人生観と相容れないと思います。

デュモリン  折口先生はマルキシズムについてはどうお考えになりますか。

折口  マルキシズムは日本人にとって、ほとんど初耳みたいな消息でありました。 その点で仏教とは全然違っています。 マルキシズムと神道とでは歴史観が違います。 これを論究しなければ問題は解決しません。

中村  共産党の悪い傾向と戦うのに、カトリックの方では非常に努力しておられる。 ところが仏教の方では、あまりやっていないではないかといわれました。 そのような比較の問題ないし事実の問題については、はっきりした数字で申し上げることが出来ませんけれど、もしそういうような印象を一般の人に与えているとしたら、我々仏教者としては非常に慚愧ざんきすべきことであります。 その歴史的原因を考えてみますと、カトリック教会は長い間に政治的な組織が出来ていて、その強みがあるのです。 ところが仏教というのは、日本では日本仏教として一つの世界を作って発展している。 支那には支那仏教があり、南方には南方の仏教がある。 その間の交通などということはかつては不可能だったのです。 したがって政治的連絡ができない。 ようやくこの戦前頃から、各国の仏教徒が一致して行動しようという傾向が出てきた。 これが戦争のために、外国の仏教徒との連絡が閉じられている。 しかし将来は必ず一致して進む方向へ向ってゆくと思います。

花山  カトリックは世界的に一つになっていますから、世界的に一つの行動がとれますが、仏教は日本内地だけでも小さく分かれていて、なかなかうまく行動がとりにくいのです。

デュモリン  それはもう一つの理由があるのではないでしょうか。 仏教は全世界にそう弘まった宗教ではなくて、仏教のひろまった各国——日本もそうですが——では、地理的にソヴィエトから多少離れて、直接にその脅威や暴力を受けていません。 それに反して、ハンガリヤ、チェッコスロバキヤ、ポーランドなどにおいて、カトリック教会は共産党と論戦するだけでなく、実際にその迫害を直接にうけているのですね。 こういう国から信用できる便りが随分たくさん入ってくるのに、日本の知識人はなぜそれを知らん顔をしているのか本当に不思議なことだと思います。

増永  カトリックでは共産主義の考え方には全然賛成しないですか? その一部にでも賛成はしないのですか?

デュモリン  共産主義の考え方といいますと、あいまいな言葉ですが、第一にその無神論を認めることが出来ません。 唯物論も、暴力も、独裁主義も。 そして社会実践ということについても、私達カトリック者として確かに社会改革、社会改善を望み、全世界においては何か社会改革が必要だと思うのです。 資本主義とブルジョワ的精神とではもうこの世は直らない。 しかし社会実践の手段として、共産主義的手段を私達はとることは出来ない。 本当の社会改善の道は如何いかなるものであるかということは大きな問題です。 教皇様方は社会実践についてもカトリック者だけでなく、他の真剣なる社会運動の指導者に大いに注目された指導を与えました。 ここで詳しく説明する暇はありません。 とにかく社会実践という点で、全力をあげて尽さなければならないと感じています。 その場合にすべての善意ある人と手を握って協力したいと思います。 カトリックは少しも排他的ではありません。 よいことはどこにでも認めます。 ただ妥協して真理を裏切ることは出来ません。 普遍的な真理を説くことこそ、われわれのなすべきことだと思います。

十四、世界平和のために

編集者  議論も大分進んでまいりましたが、そのあたりで結論として世界の平和と宗教という問題につきまして、特に最近平和の問題が論議されているようですが、花山先生いかがでしょう。

花山  平和には、最初から話が出ておったように、私はやはり宗教が基本でなければならないと思うのです。 政治工作や経済の面、あるいは哲学や実践倫理の面だけでは、とうてい解決がつかず、やはりそこには宗教が、人間の基盤に立たなければならない。 絶対者と自己の関係においてこそ、はじめて平和の世界がめざめさせられて、そこに真実の道が開けてゆく、世界の人がみんなそういう立場にさえなれば、問題なく戦争は解決できると思います。 しかし、これは一つの理想にすぎぬかもしれません。 人間の現実は、つまらない兄弟喧嘩もするし、親子喧嘩もするのだから、今後けっして戦争も起らないということはいいきれないでしょう。 しかし希望としては、あくまでも我々の理想の世界が一日も早く顕現けんげんせんことを念願して止みません。

ラッサール  ちょうどこの間、本を読んで面白い比喩をみたのですが、 ——それは共産主義の非難なのです。 というのは、腐った卵でもっておいしいオムレツを作ることは誰も出来ない。 この世界平和を作る場合にも、やはりまず健全な良い卵をつくらなくては平和を作ることは出来ません。 健全なる卵と申しますと道徳を持っている人間です。 それが我々宗教家の一番の勤めだと思います。 それが第一歩だと思います。 それでなければ、いかなる国際連合でも、その他どんな機構をつくっても、世界の平和を作ることは出来ません。

中村  すでに先生方のいわれたことでつきますので、特にいうこともありませんが、個人的感想を申し上げます。 今、お話に出ましたように、各個人が人間にめざめて道徳的自覚に立つものでなければ新しい平和な世の中は来ない。 もしも、それが単なる唯物論的立場に立つ便宜主義的な道徳観であるならば、必ず破綻はたんきたす。 で、将来の世界に仮に平和が来ても、力でぐっと押さえているような世の中、いわば秘密警察国家が出来たとしたら、それは決して望ましいことではない。 本当の平和というものは人間に対する暖かい心情をもって持ち来たされた平和でなければならない。 それは実践の基底に宗教心がなければ不可能である。 現に世界の今の人間の動きというものがその道理を示しているのではないかということを感じております。

折口  私どもが共産党に対して思いますのは、共産党はまだ最後の哲学を示していないという事です。 だけど、我々から考えると、あれも一つの宗教形態にすぎないので、我々がこれから先の宗教というものを考えるのにああいうものを冷静な態度でよく観察してみる必要があるのだと思います。 今まで宗教生活を失っていた日本人も、宗教的自覚を起す人が、そのうち相当に出てくるでしょう。 まあ、われわれの待ち望む形だとは思えないものなら、今日も続々と出て来ている。 時が来て、正しいものが、形を整えるものが出てくる。 それがキリスト教に属すべきものであっても、仏教に近いものであっても、あるいは全然新しいものであっても、日本の持つ所の一つの宗教として認めてゆくのが本当なので、ちょうど、幕末、明治の始めに起った新宗教がほとんど神道に入ってしまったと同様、ここで我々本当に宗教を求める心になって、仏教の様式でも、キリスト教の様式でも、あるいはその他の様式でも、ここに生み出すような努力をしたいと思います。 努力した所で宗教というものは出てくるものじゃないのですが、煩悶のない、苦悶のない心に、宗教は生れるはずはない。 本当の自覚者が出てくる地盤が出来るということが必要なのです。 自覚者を出すためには、我々はやはり努力しなければならない。 だけど、その間には、政治家達が宗教、殊に新宗教に対して、無理解な迫害を加える態度を改めなければならない。 政治家の意志通り国民が動いて行って、宗教を把握することは出来るはずはないのです。

デュモリン  ナチや、ファッシスト的政治家も共産主義的政治家も結局、自然法や普遍的倫理性を認めない政治家は皆、宗教に圧迫を加えるのです。 政治家の宗教迫害の原因をよく考えてみることは必要なことでしょう。

花山  政治家といったって、宗教を何も知らないのだから。 (一同笑声) それを教えてゆくのが我々の役目だから、何もそんなに心配する必要はない……(笑声)。

中村  日本の場合、こういう事情があると思うのです。 室町時代までは非常に宗教が人間の思想を指導し、そして実際に生きていた。 ところが徳川時代になってから、宗教に対する統制圧迫が強くなったのです。 その理由は、日本人の間では閉鎖的な人間組織を重視する傾向があると思うのです。 その一番大きなものは藩とか国だとかです。 藩公とか国王の命令は絶対的のものであり、もし宗教がそれに反するようなことがあると困る、で、宗教などというものは藩とか国が一致して行動を起す場合には邪魔ものになる。 そう考えたために圧迫した。 キリシタンの圧迫というのもそこに原因があるのではないかと思うのです。 浄土真宗に対しても相当圧迫があったのです。 例えば本願寺に対して武力的な圧迫を加えるとか、あるいは島津藩では真宗の信徒を捕えて皆死刑にしたとか、そういうこともあります。 これもやはり現世主義的な地上の権威を絶対視するというような考え方によって統制しようとしたために圧迫が起った。 その態度が、明治以後の国家至上主義の時代に継承されて、宗教というものは国家至上主義にとって邪魔物だから、とにかく出来るだけ圧えようとした。 ——ちょうどナチスの宗教圧迫と考え方はその点で共通じゃないかと思うのです。

花山  まあ現在の人には、そんな強い宗教に対する自己の考え方なんて何もありません。

デュモリン  しかしそれは結局、人間、その人格性を十分に尊重しないということから起ってくるのではないでしょうか。 (一同肯定)

中村  つまり、そういう考えかたからの結果として、こういう現象が起ったのですね。

編集者  この辺で座談会を終りたいと思います。 この座談会において我国のために宗教がいかに必要であるかという点がいく分でも明瞭になったことは非常にうれしく存じます。 現代日本において論議の的となっている宗教についての諸問題に対して諸先生の活発なる御意見を伺うことができましたことを感謝いたします。 特に今までの日本において政治家、教育家、実業家等が全くゆるがせにしていた人間性、パーソナリティの尊重ということを宗教的立場からも強調しなければならないことを痛感致しました。 われわれにとっては自由なしかも完全なパーソナリティへの向上を目指すことが最も緊要きんようではないでしょうか。
 では長い間どうも有難うございました。

〔昭和29年8月 『世紀』 第1巻第5号4〜22頁〕

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