破吉利支丹
鈴木正三
一、
キリシタンの教に、デウスと申す大仏、天地の主にして、万自由の一仏あり。
これ則ち天地万物の作者なり。
この仏、千六百年以前に南蛮へ出世ありて、衆生を済度したまふ、その名をゼズキリシトと云ふ也。
余国にこれを知らずして詮もなき阿弥陀、釈迦を尊びたてまつる事、愚癡の至りなりと云ふよし聞き及ぶ。
破して云はく、
デウス天地の主にして国土万物を作り出だし給ふならば、何としてそのデウス今まで無量の国々を捨置きて出世し給はざるや。
天地ひらけてより以来三世の諸仏出で替り出で替り衆生済度し給ふ事、幾万萬歳といはんや。
そのうち終に余国へデウス出給はで、近比南蛮ばかりへ出世あると云ふ事、何を証拠とせんや。
デウス天地の主ならば、我が作り出したる国々を脇仏にとられ、天地開闢より以来、法を弘めさせ、衆生を済度させ給ふ事、大きなる油断なり。
まさしくこのデウスはたはけ仏なり。
その上ゼズキリシト出世して下界の凡夫にはたものにかけられたりと云ふなり。
これを天地の主とせんや、かやうの筋なき事あらんや。
彼のキリシタン宗、本覚真如の一仏ある事を知らずして、一仏をかすめ奉り、この国に来たり魔法邪義を弘むる科、天罰まぬかるべからず。
かほど拙なき理を弁へずして、かれが教を敬ひ、命を捨つる蒙昧の人多し、
この国の耻辱にあらずや、異国までの聞え、ロ惜き次第なり。
一、
三世の諸仏、出世の本意は衆生成仏の直道なり。
故に直指人心、見性成仏と云へり。
世尊出世ましまして、難行苦行十二年の功積って臘月八日に明星を見給ひて、諸法実相の理を悟り給ふ。
それより山を出で、諸経を説き終り給ひて後、花を拈じて衆に示す、この時衆皆黙然たり。
ただ迦葉尊者ありて、破顔微笑す。
世尊のたまはく、吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門あり。
不立文字、教化別伝、摩訶迦葉に付属す。
迦葉より嫡々相承して、日本に伝りて、今に至りて以心伝心の旨を守るなり。
然るにキリシタン教ゆるところは、実有の見を専らとして、念慮識情を増長し、天地の作者を造り立て、輪廻の業を重ねて、 是を成仏道とおもへり。
かほどつたなき見解にて、この国に来たり、正法に対せんとする事、鵬燕翅を争ひ、月蛍光を論ずるに異ならず。
一、
日本にて神を敬ひ奉る事、僻事なり、これもデウスを知らざる故と云ふよし聞き及ぶ。
破して云はく、
それ日本は神国なり。
神国に生を得て、神明を崇め奉らざらんは非儀の至りなり。
和光同塵は結縁の始め、八相成道は利物の終りと云へり。
然ればまづ神と現じ、この国に跡を垂れ給ふ事は人の心をやはらげ、真の道に入れ給はんための方便なり。
神と云ひ、仏と云ふはただこれ水波の隔てなり。
本覚真如の一仏化現して、人の心に応じて済度し給ふ。
されば神を敬ひ奉る心も彼の一仏に報ひ奉るなり。
たとへば国王を敬ひ奉るには、臣下大臣をはじめその次第次第、物頭、役人、百姓等は代官下代までを敬ふ事、定れる法なり。
これ皆、上一人を貴び奉るの儀なり。
キリシタンの教のごときは、上一人を貴び奉る人その下を用ひざるを正理と云ふにあらずや。
かやうの非儀をよしとせんや。
一、
日本にて、日月を敬ひ奉る事、僻事也、これは世界の行燈なり、これもデウスを知らざる故と云ふよし聞き及ぶ。
破して云く、
それ人間の形は陰陽を根本として、四大合して体と成る。
然れば日輪は陽の正体、月輪は陰の正体なり。
陰陽をはなれてこの身を保つことあらんや。
我等が根本なれば崇めても崇めてもあきたらず。
陰陽を詮なしと云はば、水火を用ゆる事なかれ。
天に日月ありて、世界を照し給ふ、この恩、報じ難し。
人間に両眼ありて、自己を照す事、これすなわち日月の徳を受くるにあらずや。
日月尊敬し奉るを詮なしと云はば、キリシタンは眼をつぶさんや。
正理をしらざる事、かくのごとし。
誠に愚癡の至りなり。
一、
キリシタン宗には、惣じて物の奇特なる事を尊び、これデウスの名譽なりと云ふて様々はかり事をなして、人をたぶらかすよし聞き及ぶ。
破して云く、
奇特なる事貴きならば、魔王を尊敬すべし。
この国の狐狸も奇特をなす。
天帝釈と阿修羅とたたかふ時、戦ひ破れて阿修羅ども八万四千の眷属を引て蓮の糸の穴に入ってかくると云へり。
かやうの奇特をも尊しとせんや。
それ六通と云ふは、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、飛行通、漏盡通なり。
天眼通と云ふは、大千世界の事を一目に見る通なり。
天耳通と云ふは、大千世界の事を居ながら聞く通なり。
他心通と云ふは、他人の心中を明らかに知る通なり。
宿命通と云ふは、過去生々世々を知る通なり。
飛行通と云ふは、天上天外まで飛行自由の通なり。
この五通は天魔外道にもある通なり。
漏盡通と云ふは、天魔外道の及ぶ処にあらず、煩悩を断じ盡す処の仏智なり。
然れば仏の六通には奇特なし。
さる間、正法に奇特なしと云へり。
この理を知らざる人は天魔外道にたぶらかさるべし。
それ仏の六通と云ふは、眼に色を見て碍らず、耳に声を聞いて碍らず、鼻に香をかぎて碍らず、舌に味をなめて碍らず、身に触れてさはらず、法界に在りて万法にさはらずして、鏡に影の移るがごとし。
この心虚空同体なるを六通無碍の道人と云ふ。
また無相無念の人ともいへり。
経に云く「三世の諸仏を供養せんより、一箇無心の道人を供養せんにはしかじ」と説き給へり。
仏道修行の人は、この道を学ぶなり。
更に奇特を用ゆる事なし。
一、
キリシタンの教へに畜類には實の霊なし、さる間、この身死する時、霊も共に死す。
人間にはデウスより真の霊を作り添へたまふ故に、この身死すれども霊死せずして、今生善悪の業により苦楽を受く。
善業の者をばハライゾウとて楽しみ尽きぬ世界を作り置きて、これへつかはし給ふ。
悪業の者をばイヌヘルヌとて苦界を作り置きて是へ落して苦を与へ給ふと云ふよし聞き及ぶ。
破して云はく、
畜類と人間の霊を作り分け給ふならば、何として人間の霊に悪心を作り添へて地獄に落し給ふや。
然れば人間を地獄へ落し給ふ事は偏にデウスの業なり。
釈迦如来御出世の時、天竺に外道宗繁昌せり。
彼ら智恵広大にして種々の見を立て、理を説く事、仏の法に似たりといへども、自眼不明にして、言説のみなり。
数論外道に二十五諦を立てて、世間の諸法を判ぜり。
その第一を冥諦と名づく。
天地未だ分れざる先は吉凶禍福にも預からず。
見聞覚知も及ぶ事なし、名字を付けがたしといへども、強いて冥諦と号す。
これは常住にして生住異滅にうつされず。
第二十五諦を神我諦と名づく。
これは凡夫心と名づけ、魂といへるものなり。
是も常住なりといへり。
その間の二十三諦は世間の吉凶禍福等の諸々の転変の相なり。
これを有為の法と云ひ、神我長短方円の相を起せば、冥諦転じてその形を現ず。
然る則ば世間有為の転変する事は神我の情を生ずるによれり。
神我一切の情を生ぜずして冥諦に帰すれば、有為の転変永く休て無為の楽しみ自ら至る。
色身は壊滅すれども神我は滅せず。
たとへば家はやくれども主は出づるがごとしといへり。
かやうの見解を以て様々に理を説くといへども、終に如来に対し奉り、直に自性を悟りて残らず仏弟子となれり。
ただ今のキリシタン、全く外道の見にだも及ばずして、正法なりと思ふ事、まことに井の中の蛙なり。
一、
世尊四十九年、甚深の法を説き給ふといへども、終りに一字不説と説き給ふなり。
これ則ち直に仏性を知らしめん為の教なり。
一字不説の意、思量の及ぶところにあらず。
されば修多羅の教は、月をさす指と説き給ふ。
古人、心法を示して云く「有心を以ても求むべからず、無心を以ても得べからず、言語を以て至るべからず、寂黙を以て通ずべからず」と。
かくのごとく教へ来たり、更に言説の及ぶところにあらず。
七仏出世これ同じ。
毘婆尸仏、尸棄仏、毘舎浮仏、拘留孫仏、拘那含仏、迦葉仏、釈迦牟尼仏、これを七仏といへり。
この一仏の法も幾千万歳ならんや。
いはんや七仏の法、その限りを知らず。
また阿弥陀如来の出世は、十劫以前、宝蔵比丘と申し奉る。
阿弥陀は梵語、漢語には無量壽といへり。
観無量壽経に云く、「無量壽仏の身は百千万億、夜摩天のごとく、閻浮檀金の色なり。
眉間白毫、右旋婉転する事、五須弥山のごとし。
仏眼四大海水の如く、青白分明なり。
身の諸々の光明を演出する事、須弥山のごとし。
かの仏の円光は百億三千大千世界のごとし」と。
この文、分明なり。
御長は六十万億那由他恒河沙由旬、眉間白毫は五須弥山、御眼は四大海水と有り、これより大きなる仏あらんや。
大千世界も阿弥陀の体中に比量せば、九牛の一毛にも及ぶべからず。
清るは上って天となり、濁れるは下って地となりて、陰陽と分れ、天は陽を司り、地は陰を体として、世界ひらけ始まりしより事起りて、天を父とし、地を母とし、陰陽合して森羅万像出生す。
これすなわち一仏の徳用なり。
この一仏を禅法には大人とも大力量の人とも云ふ。
大力量の人を題して無門の頌に曰く「脚を擡げて韜翻す香水の海、頭を低れて俯視す四禅の天」と。
諸経諸録かくのごとく沙汰せり。
仏性法界に普くして、一切衆生の主人となる。
さる間、一切衆生悉有仏性と説き給ふなり。
たとへば天上の一月の万水に移るがごとし。
大海にも一月、一滴の露にも一月有るに似たり。
心法無形にして、妙用を現ず。
眼にあっては物を見、耳にあっては声を聞き、鼻にあっては香をかぎ、口にあっては物を云ひ、手にあっては物を取り、脚にあっては歩み行く。
この心仏を悟る時は仏なり。
この心仏に迷ふ時は凡夫なり。
されば自己の仏性を知らしめんための方便に、或る時は本来の面目と名付け、或る時は本分の田地と云ひ、大円覚と云ひ、大通智勝仏と云ひ、大日、薬師、観音、地蔵菩薩などと異名数多しといへども、仏に二仏なく、法に二法なし。
諸法実相と観ずる時は松風流水妙音となり、万法一如と悟る時は草木国土すなはち成仏といへり。
かくのごとく直に成仏あることを夢にも知らず、彼のバテレンどもゼズキリシトが教へを尊しと云ふ事、魚目を留めて明珠とするに異ならず。
一、
仏はこれ大医王なり。
衆生迷倒の病を治し給はん御誓願なり。
衆生信じてこれを用ゆる時は煩悩業障の病治せずといふ事なし。
されば凡夫迷倒の病を知らずして、薬を用ゆる事あるべからず。
病の源を尋ぬるに、夢幻のこの身を実と留むるが故に、日夜心をなやます病なり。
貪欲、瞋恚、愚癡、三毒の念おこり来たり、我を責むること、ただ身を思ふ一念を元とす。
この三毒を種として八万四千の煩悩の病の床に伏すといへども、この理を更に知らずして、かへって病を愛すること、偏に凡夫の定業、一生の苦しみ是なり。
然して死する則ば常住今生に執着したる妄念、悪鬼となり、競ひ来たって責め苦しむること、さらにいふばかりもなし。
死出の山、三途の川と云ふ事も、この時に至りて現じ来たる。
然れば凡夫は生にも苦しみ、死にも悲しむ事、かくのごとし。
これ皆、顚倒の心より作り出すところなり。
顚倒と云ふは、一には苦を好みて楽として真の楽を知らざる心なり。
二には無常の理を知らずして、この世界に執着し、常住の念をなす心なり。
三には十悪八苦の体を受け、煩悩のきづなにつながれながら、自由の身と思ふ心なり。
四にはこの身の不浄なる事を知らずして、清浄なりと思ふ心なり。
かくのごとくあやまり来れり、返すがへす身の不浄なる事を更に知るべからず。
五臓六腑、毛の穴より出る汗、大小便、耳あか、鼻しる、一として清き事なし。
我らが愛するこの身をかへり見ずんばあるべからず。
この理を知らしめんために不浄観を立て給へり。
不浄観を作さん人は屍の多き墳のほとりに住せよとなり。
これ偏に臭肉に執着せざれとの教へなり。
この心に離るべし。
心生ずれば苦楽あり。
心滅すれば碍りなし。
心を以て心を知るべし。
されば仏と衆生との替りは水と氷とのごとし。
煩悩の念滞るを水の氷と成るにたとへ、万念消滅してさはりなきを氷解けて水となるにたとへたり。
されば経に云はく「三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別」と説き給ふ。
この一心は何者ぞ、キリシタン全く知ることなし。
一、
近年来るバテレンども更に天道の恐れもなく、私に天地の作者を作り立て、神社仏閣を滅却し、この国を南蛮へ取るべき謀を以て様々虚言して、人をたぶらかす。
この国の盗人坊主同心してイルマン、バテレンと号し、数多の人を引き落す。
この国の仏は仏にあらず、日月もいやしく神明もなき物なりと云ふ、その科甚だ重ふして天罰、仏罰、神罰、人罰、一として免れず、皆々つるし殺さる。
彼らに随ふ物どもこの科胸に満てり。
然る間、幾千万人と云ふ数を知らず亡びぬ。
これ魔法の致すところなり。
公儀よりの御制罰にあらず。
彼ら天道を掠め奉り、偽りを構へ、無数の人を地獄へ引き入れたる悪逆無道の自業自滅、至極せるところ眼前なり。
かのバテレンども真の仏弟子ならんには一人ほろぼし給ふとも天道のたたりあるべし。
数多のバテレンこの国のキリシタン宗、数を知らず死罪に逢ふといへども、何のたたりあるや。
彼ら幾度来るとも天道のあらん限りは皆々自滅せん事疑ひなし。
この理を知るべし、知るべし。
終
願わくばこの功徳を以て、普く一切に及び、我等と衆生、皆共に仏道に成らんことを