津具の谷 (上)

柳田國男

「尾参」という名を聞くと 想い起すことが却々なかなか多い。 まず東隅の北設楽郡についてすこし書こう。 この郡の上津具村 下津具村の津具は、 自分はこれを渡鳥のつぐみから出た地名かと思う。 毎年秋になると山国の人は網を掛け鳥を捕って生計にすることは、 古い昔より今に至るまで同じである。 それが国民経済上ずいぶん重要の事であったために、 色々これに関する地名を諸国に遺している。 鳥には文明が無いから、 その数が追々に減じたという外には、 その生活の習慣に古今の変わりは無いはずである。

鴻雁こうがんなどと違い、 鶫ははねの弱い小鳥であるから、旅行に骨が折れるためか、 秋口にこの島に到着してから暖い太平洋岸に出て暮すまでに大分の日数を費す。 例えば木曽の谷でも、上流の宮越みやのこし福島あたりに少くなってから始めて阪下中津川辺で盛んに捕れるのである。 途中で遊びながら冬になって漸く海近くへは出て来る。 従ってこの鳥の渡るみちおよまっている。 単に連山の峰合のやや低くなった場所を越えるというのみで無く、 山の南に日当りの良い、 林木りんぼくの静かな、 食物に豊かでたかの害をのがれやすい盆地を控えておれば都合がよいと見えて、 多くの鶫の群は必ずその辺を通る (椋鳥むくどりなども同様であるが、肉がまずいから人がこれを重要視せぬ)。 津具の谷は正しくこの条件に合している故に、 自分はその村名の由来をかく想像した。 即ちツグという鳥の沢山たくさんに取れる地という意味かと思うのである。

鶫の通路はまた人のためにも通路である。 国境の山を最も低い地点で越え得る外に、 そのふもとに人里あり野川があって、 往来の休息に便であるところはいつとなく人がこれを知る。 津具谷は軍略上に用いられた歴史は無かったが、 下伊那の山村から伊勢熊野に参る者、 東三河の浜から塩や海魚かいぎょを売りに行く者、 これら無名の同胞はまた鶫の如く規則正しくこの水筋を利用して、 ついに今の吉田街道を作り成したのである。

さてこの平穏なる津具の谷に、 人のあまり知らない二個の小事件が発生しつ終了している。

その一つは今から百七八年の前、 上津具の山に小屋を掛けて数戸の木地師きじしが住んでいた。 そのうちの要造および佐太郎という者の小屋へ京都の神祗伯じんぎはく白川しらかわ)家の役人、大貫左衛門の手附役、青山帶刀と名乗って来た者がある。 「このたび御改正によって諸国の木地屋はことごとく白川家の支配となったから、 手前たちも各冥加金みょうがきんを差出し免許状と鑑札とを受け、 且つ以来は年々の貢納を怠るな」 とやぶからぼうに言渡し、 要造らが不承知を唱えると、 たちまち木地職の道具を取上げてってしまった。 木地屋共は憤慨して仲間の六左衛門の小屋に集合して相談していると、 この騒動を聞き付けて信州側の根羽ねば村に居る木地師 甚右衛門、忠右衛門、 阪部さかべ村の木地師 源右衛門、十造等大勢の同職が見舞に来り、 一方は村役人に依頼して道具取戻の尽力を求めた。

〔大正3年12月1日 『名古屋新聞』 6面〕

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