津具の谷 (下)

柳田國男

しかるにその頃、 上津具の百姓では新左衛門、七兵衛、 下津具では彌助などという人が顔役であったらしい。 色々と右青山帶刀に向って交渉をしたが、 とてもその口先には敵することを得なかった。 そこで木地屋の中の無法者が、 「道具が無くては活計かっけいが出来ぬ、そんならこれからは村の衆に食わせてもらおう」 と言出すと、一も二も無く賛成者が出来て一同で押掛けて来る。 新左衛門らは大いに迷惑した。 その結果彼らに向い、 「白川家の役人等は根羽の宿屋に泊っている、 貴公ら直接に往って談判をしてはいかがか」 と多少煽動的に勧めると、「それがよかろう」 と方向を変じて、 当時木地屋の中の親分株、波合なみあい村の伊兵衛が口聞役で、 大層な権幕を以て青山が旅宿に押掛けた。 スルと青山帶刀、これは又とんだ弱虫と見えて、 一札の謝罪あやまり證文じょうもんを取られ、 おまけに堂々たる会符えふ提灯ぢょうちんまで木地屋のために占領せられてしまい、 青山が従者二人は元木地師の吉左衛門、繁次郎であろうということで縛られて打たれた。 これがその騒動の大要である。

木地屋は平原の文明社会と誠に交渉の少ない奇異なる部落である。 彼らが故郷は近江愛知えち東小椋ひがしおぐら村大字君ヶ畑きみがはたおよび蛭谷ひるたにで、 そのほとんど全部は小椋おぐら苗字みょうじとしている。 昔から諸国の深山しんざんに分れて木地挽物ひきもの細工を生業なりわいとし、 皆帰ったらとても郷里の土地に入り切らぬほどの人口に増加しているが、 今もって熱心な愛郷者あいきょうしゃで、 更代こうたいに村に帰って祭を勤めるのみならず、 毎年氏神うじがみの社に多額の納金をする。 白川家の役人の神祗伯じんぎはくたる地位をはさんでその利益をわかとうとして色々の手段を講じたが、 結句この部落の感情を理解しなかったために失敗し、 津具の屈辱のごときも、 これを寺社奉行に訴えてかえって不首尾であった。

段戸だんど山の周囲および三河信濃の境山さかいやまには今なお多くの小椋氏が分居して、 木を伐りつつ移動しているらしい。 我国には春秋の渡鳥とは十文字に、 中央山脈に沿うて東西に漂泊ひょうはくする特殊の団体がある。 近江を中心とした木地屋はそのゆうなる者で、 西は山陰の果て、東は奥羽の山々にも及んでいる。 奥羽から冬季西の方へ移る人種にマタギという者がある。 これは猟師である。 また「ドヤ」という小さな金山師の部落も以前はあった。 山の奥に風俗のかわった村の多いのは、 一つにはまた彼らが土着したからである。

第二の事件は自分の事であるから殊に人は知らぬはずである。

自分は明治三十八年の十一月の六七日頃、 稲橋いなはし村の古橋氏で葦毛あしげの駒を借り、 段戸だんど山頂の牧馬を見に登った。 谷川の白い浪に紅葉の盛んに散込む日であった。 頂上は既によほど寒く、尾花がことごとく枯れている。 納庫なぐらの方へ下ろうとする山路であられが降った。 少なくも八代集時代の風情ふぜいであったが、 いかんせん洋服高帽子では歌にもならなかった。 麓の里では時雨しぐれであった。 夕方に納庫の原田氏で提灯を借りて、また一つ山を越えた。 山には入日いりひがさし、 草の柴も木の葉もみな濡れている。 提灯をけようかという頃に上津具かみつぐの村が見えた。

津具の山崎氏は遠い縁者である。 主人の従軍して留守なことは知っていたが、 総領の娘が病気でいるから是非訪ねたかったのである。 小学校かと思うような長い二階造の洋風の建物を、 「あれが山崎さんの病院です」 と連れの人が教えてくれた。 手燭てしょくを持って廊下を誰か行くと見えて、 数ある窓が一つづつ明るくなって行く。 水の音が聞えるようになってから殊に寂寞せきばくを感じた。 その晩は明るいともしびもとにぎやかな話をしながら、 腹では色々の事を考えたことを今でもよく記憶している。 翌朝は碁盤石ごばんいし山のみねに霜が強く降りていた。 今度はこの家の鹿毛かげに乗って例のつぐみの道を南へ下ったのである。

津具の盆地の広々としているために、さして山奥とも感じなかったが、 田口たぐち海老えび大海おおみ新城しんしろと低くなる度に振返って見ると、 左右の山があたか十二一重じゅうにひとええりを合せるように重なって、 終いには雲が出てその山にかかる。 「どこかに静かな海岸はあるまいか」 と云った病人の言葉を思出して、 つくづくと可愛そうに思ったのである。 永くはあるまいということを自分でも知っているらしい言葉であった。

その翌年の正月、自分は三保みほの海岸に居て大勢と話をしていたら、 「海よりは山の方がよい」 と言出した者が一人あった。 その折には誰にも言わなかったが、こういう歌をよんだことであった——

海に居て深山ゆかしといふ人に
   つげばや津具の旅ねがたりを

(石巻生曰く、 貴族院書記官長 柳田國男氏は我国における土俗学のオーソリチーで、 平素僕が推奉している先輩である。 ここに揚ぐる一篇は、昨年雑誌の発刊を計画した時、 同氏から津具村誌と題して送られたもので、その後 社務繁激のため雑誌発刊のいとまなく 今日までこれを筐底に納めていたが、 今や鶫狩の時期となったので本紙に揚ぐることにしたのだ。)

〔大正3年12月2日 『名古屋新聞』 6面〕

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