陪審案の運命如何

天皇の神聖を無視せんとする一派

司法権は天皇の名において、 裁判所これを行うは、 帝国憲法の明定めいていするところである。 ここに司法権というは裁判権であり、 そして裁判権は事実の上に法律を適用するの行為である。 ただ現行の制度が、 事実の認定権をもあわせ裁判権の中に含ましめているが故に、 これにとらわれたる頑冥がんめい固陋ころうは、 裁判としいえば、 如何いかなる国においても、 如何なる時代においても、 事実を認定しなければならないものとしている。 あやまれるのはなはだしきものといわねばならない。 客観的なる事実は神ならぬ身の、 如何なる人間といえども知るよしがない。 これを人間たる裁判官の認定にまかし、 そしてその裁判の責任をいつに天皇に負わさんとするのは、 天皇の神聖を無視するものでなくて何であろう。 天皇の神聖にして犯すべからざるは、 これまた帝国憲法の明定するところである。 天皇は憲法上無答責むとうせきの地位にある。 一切の行為に関して何らの責任を負わしめられず、 超然として九重ここのえの雲深きところにおわします。 それ故、天皇の名においてなされつつある司法権の行使すなわち裁判において、 何人なんぴともその真相をとらえ得ざる事実の認定を裁判官に一任し、 そしてこれによって認定されたる事実が、 後日に至り、 いうところ事実にあらざることを発見したるとき、 私共はその誤認のせめを果して何人に帰属せしむべきか。 陪審ばいしん制を取れば、 私共はこれを陪審員の責に帰属せしめ得べきも、 現行の制度そのままを持続すれば、 その責はこれを裁判官ないし裁判所に帰属せしめなければならない。 しかもこの裁判所は天皇の名において司法権を行うものなるが故に、 事実誤認の責任は最終にこれを天皇に帰属せしめなければならない。 陪審制の創剏そうそうに反対するものは、 無意識の間に天皇の神聖を無視するものである。 しかもこうした手合てあいが、 陪審制の創剏をもっかえって憲法違反の措置なりというに至っては、 笑止千万といわなければならない。

これを各国の現状に観るも、 欧州の先進諸国中、 陪審制を取らざるものはオランダ一国あるのみである。 このオランダもかつて全盛を極めし折においては、 陪審制度を採用したるも、 その後国勢廃頽はいたいして、 その存続を許さざる事情生じたるため、 ついにこれを廃止するのむなきに至ったのである。 日本の文化を以てして、 司法制度に陪審制を採用しないのは、 日本が八大工業国の一つたる光栄を担ったにもかかわらず、 なお労働八時間制を拒絶せしと同様、 五大強国の一つとしてその光栄を裏切るものである。 何が故に、論者は論者自らしかく卑下しなければならないのか。 彼らは彼らの国籍を有する我が日本をして、 何が故にしかく自ら卑下せしめなければならないか。 怪訝けげんに堪えざるところである。 将来ますます進歩発達すべく運命を有している我が日本をして、 オランダと同様の運命を担わしめんとするのは、 私共の断じてくみあたわざるところである。

由来、官僚はうところ権力の乞食こじきであって、 進んで権力を一身に集中せしめんとすると同時に、 一たび握ったる権力は何処どこ何処までもこれを離さざらんとするの陋習ろうしゅうを有している。 こうした陋習の奴隷であるがため、 彼らは現行法によって、 偶々たまたま併有へいゆうすることを許されたる事実の認定権を何処何処までも剥奪されざるべく、 最終の絶望的蛮勇をふるっているのであろう。 けれども時世は一変した。 今やデモクラシーの潮流は澎湃ほうはいとして私共の脚下きゃっかに押し寄せきたり、 アリストクラティック、 オウトクラティック、 デスポティックなるすべてのものを洗い去らんとしている。 現在の裁判官が偶然に併有し居る事実の認定権も、 またこの潮流によって洗い去らるべきものの一つである。 この潮流に逆わんとするものの運命は彼自らの一身をもこの潮流によって洗い去らるることであらねばならない。

頑冥なる樞密院は今何を逡巡しゅんじゅんし、 何を恐れて、 陪審制に対して無用の質問をなし、 無用の調査を重ねつつあるのか。 彼らはこれを否決することによって、 天皇の神聖を無視せんとしているのか。 それとも官僚としてデモクラシーの潮流に反抗すべく、 絶望的なる最終の奮闘を敢てせんとしつつあるのか。 普選の実施を要求すれば、 社会組織を脅威するものとしてまれ、 陪審制の採用を要求すれば、 憲法違反の行為として嫌わるる私共日本国民こそわざわいなるかなである。 しかも陪審制の採用は普選の実施よりも、 民権伸長の上において、更に一層急務なるもの、 現内閣のはら首相が普選の実施を後にして、 陪審制の採用を先にし、 法制審議会なるものを設けて、 これをその調査に付し、 こん議会にこれを提出すべく、 急いでいるのは所以ゆえんあるかなといわなければならない。 しかも同案が今なお樞密院内に低徊ていかいして、 容易に通過を見ないとすれば、 同案の運命は私共の掛念けねんに堪えざるところである。 もしも同案にして現内閣の下に議会に提出されなければ、 近き将来においては、 他の内閣によって提案さるるの見込なく、 よし提案されたとしても、 議会を通過すること困難なるの点に想到すれば、 憲政の前途憂慮に堪えざるものがある。

〔大正10年2月20日 『新愛知』 1面トップ無署名論説〕

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