陪審制と帝国憲法 (上)

陪審違憲説の妄を正す

法学博士 江木衷

文明諸邦の憲法中、 司法権行使の必要条件として、 陪審制度の設置を明言するものあり、 或いはこれを明言せざるものあるも、 憲法制定の前後において法律によりこれを設置せざるものほとんどこれなきはない。 ただ憲法中これを明言せる邦国にあっては、 既存の陪審制度を廃棄し得ざるのみで、 これを明言せざる邦国にあっても敢て将来の立法を拘束するものでないことは明白である。 我国においても憲法実施前、 あらかじめ陪審制度を制定し置くべきものとなし、 その成案はすでに元老院を通過するに至ったのであるが、 当時なお治外法権の存するものあって、 わが司法権は未だ完全の独立を得ることができず、 やむを得ずこれを後日に譲った事情は明白な事実である。

故に治外法権の撤廃とともに衆議院が陪審制度の設立の必要を建議せるは、 よく時機の宜しきを得たものと謂うべく、 爾来政党各派もまた国家問題として概ねこれを賛成するに至り、 ついに政府が施政の一大方針として陪審制度の確立を言明せるは実に国家進運の然らしむる所、 由って以て陪審制度が立憲政治に欠くべからざる基本法律たるを知るに足るのである。 然るに世上なお往々陪審制度をもって憲法に牴触ていしょくするの立法となし、 以てその制定を拒まんとするものなきにあらず。 ここに国家学の初歩たる原理を一言するのやむなきに至れるは予の自らずる所である。

裁判は国家司法権の行使である。 司法権の行使は法律の適用である。 法律の適用と、 法律を適用すべき対象物すなわち事実の認定とは、 そのかん判然たる区別の存するは何人も明認するところで、 この事実に対して適用されたる法律は法律として当然制裁の効果をともなうも、 事実の認定は単に事実の認定たるにとどまり、 何ら裁判の効力を発生するものでない。 謂うところ裁判とはすなわちこの意における法律宣言の義で、 刑事事件においては裁判はすなわち法律適用の効果たる刑罰の宣言である。 故に法律適用の機関は事実認定の機関と同一ならざるも、 裁判の裁判たる性質を失うものにあらざるもまた国家学の明認するところである。 しかも人文の発展は漸次両者の文化を促すに至るもまた自然の勢いである。 然るに論者は一に専制時代の事相に捕われ、 裁判なる漢語に拘泥し、 法律の適用も事実の認定もこれを同一機関に委するにあらざればこれを裁判にあらずとするものあり、 これ我が憲法の立案者が深く国家学の原理を極め、 憲法の用語に周到の注意を致せる事実を無視するものである。 公私の「オーソリチー」たる憲法、 英訳によるも裁判なる語をもって 「ジャッジュメント」 に充当する。 これを英語と謂わんよりはむしろ国家学上の用語というべく、 この語を除きて他に用うべき語あるを知らないのである。 しかしてこの 「ジャッジュメント」 はラテン語の judico に起源し、 「法律」または「正義」を意味する jus なる語と、 「言う」すなわち「宣言」を意味する dico なる語とより合成せられ、 裁判とは法律の宣言の義にして、 殊にドイツ語 「レヒト・スプレッヒュング」 はこのラテン語の直訳というべきである。

国法学者が司法権の行動を定解ていかいして 「司法権の行使とは一定されたる方法プレスクライブド・マンナーにより裁判所または裁判官の眼前に提出されたるブロート・ツー・ズィ・アッテンション各事案に対し現存する法律の適用を云う」 とするは即ちこの意にほかならず、 故に法律の適用たる裁判は倫理学の三段論法による論局ろんきょくにして、 認識学その正確を認むる所である。 これ法律の宣言は即ち正義の宣言と同一意義に通ずる所以で、 例えば 「およそ人を殺すものは死刑に処すべきものとす」 という法律を大前提として、 「甲は乙を殺したり」 という事実を小前提とすれば、 「故に甲を死刑に処す」 という論局が刑罰の宣言である、 正義の宣言である。 この三段論法において大前提は既定の法律にして、 裁判官はこの法律を作るものにあらざると同じく、 小前提もまた既定の事実として裁判官の眼前に提出せられたるもので、 裁判官は必ずしもこの事実を認定するものでない。 この前提たる事実は右に掲げたる司法権の定義中、 所謂いわゆる一定されたる方法によりて認定せらるべく、 その認定方法はあらかじめ法律の定むる所である。

而してこの法律は国の文野ぶんやに従い、 或いは裁判官をして併せて事実認定の任に当らしむべきものとするものあるべく、 或いは陪審員をしてその任に当らしむべきものとするものあるべきも、 事実認定の方法如何を問わず、 裁判は法律の適用にして、 裁判官がこれを宣言するも、 事実認定は事実認定にして、 陪審員は決して裁判を宣言するものでない。 今日においては陪審による事実認定の方法は、 文明諸邦共通の制度というべきも、 未だかつて陪審員の名において裁判を宣言するの邦国あるを聞かない。 故に伊藤公は司法官をもって法律の制裁力の結果たる刑罰を判断するの職司と解し、 単に有罪無罪の事実を認定するの職司とは云わなかった。 英訳がこの判断の語に充つるに 「ミーツ・アウト」 の句を以てするにおいてよくその真意を明かにするに足る。 裁判官は実に法官にして司直の父である。 これ裁判官の職務が真に神聖なる所以で、 また同時に天皇が正義の淵源たる所以である。 すなわち司法権が天皇の御名においてこれを行使し得べき所以である。

然れどもの所謂参審制さんしんせいなるものは人民をして法律を宣言せしむべきものと為す—— 少くとも憲法の精神と牴触すべきは前に提出せる卑見においてすでにこれを開陳した。 要するに我が憲法は法律の適用たる司法権の行使につき規定する所あるも、 この法律を適用すべき事実認定の方法はこれを法律に譲っている。 故に現行制度の上においては事実の認定方法は裁判所構成法その他の法律の定むる所である。 陪審制度もまた事実認定の方法を定むる法律で、 陪審制度の設立は法律をもって法律を改正するものに過ぎず、 何ら憲法と牴触あるべきものではない。

〔大正10年3月29日 『新愛知』 1面トップ論説〕

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