陪審制と帝国憲法 (下)
陪審違憲説の妄を正す
仮に裁判は当然事実の認定を包含すべきものとする、専制時代の思想を是認するも、
陪審員もまた、裁判所構成の一部を成すものとするにおいて、
憲法違反論を容るるの余地がない。
更に一歩を譲って、
憲法第二十四条の
裁判官というその所謂 「官」 とは如何なる義ぞ。 古今通用の語例にしたがえば、 「官」とは、 その第一本義においては、朝廷または政府をいうと註釈されている。 あたかも太政官というがごときである。 その第二義においては、「職司管掌」と註せられている。 法律に定めたる資格ある者をもって裁判官に任ずというがごときである。 その第三義においては、 この職司管掌に任ぜられたる吏員その人をいうと註せられている。 判事何某を懲戒すというがごときである。 論者は裁判官なる語を、 この第三義のみに用いんとする様であるが、 現行の国法上においては裁判官なる吏員はない。
伊藤公は、
裁判官なる語を裁判所と同意義に解し、
その憲法義解において本条を以て
「各人は独立の裁判所に依頼して以て司直の父とすることを得る」
の意義と為している。
またこれを憲法の明文に照すも、
「法律に依りて定めたる裁判官」
とあるも、
法律に依りて定めたる裁判官とは如何なる義か。
現に伊藤公はその義解において
「法律に依り構成設置せられたる裁判官」
と註し、
裁判官を以て組織的司法官憲と解釈しているのではないか。
けだし裁判の官を
憲法第五十七条に
「法律によりて定めたる裁判所」
とあるも、
同第二十四条に
「法律によりて定めたる裁判官」
とあるも同意義にして、
一は能働的見地、
すなわち裁判を下す国家の権力の上より立言し、
一は受働的見地、
すなわち裁判を受くる臣民の権利の上より立言したるものに過ぎない。
要するに憲法第二十四条の本質とする所は、
臣民の権利として、
臣民は臣民の自ら協賛せる法律によりてのみ裁判を受け得べく、
行政権の自由に制定せる命令規則による裁判に屈従すべきものでない事を、
しかし陪審員の認定は、
裁判官を拘束するの嫌いあれば、
これをもって単に裁判官の参考に供する資料たるに
陪審制度を設立せんとするは、 単に文明諸邦の文物を模倣するものに過ぎないものとして、 これに反対するものがあるが、 一体文明諸邦は何故にこれを存置するのであるか。 その理由に想到し能わないのは、 卓見らしき浅見と謂うべきである。 現代の人智において、 よし完全を期し能わずとするも、 事実の認定は陪審制度によるのほか他にその道なきは、 正義人道が国家に要求する、 古今の至理たるは予が既に開陳したるところである。 政府が施政の方針として陪審制度の確立を宣明する所以もまたこの意に外ならない。
この理論的根拠に対しては未だ何ら批難の声を聞かないが、
世上往々、
憲法を改正せねば、法律として陪審制度を設立すること能わずとするものがある。
その論拠とする所を聞くに、
憲法上裁判なる語は当然事実の認定を包含すべきものなるを以て、
法律上陪審をしてその任に当らしむべきものとするは憲法に牴触すと云うに在る。
これ憲法と法律との関係を
「裁判」
なる漢語は、
漢語としてその意義を漢文学に求むるは格別、
憲法上の用語に至っては、
これを国家学に求むるの外なきは論を待たない所である。
而して裁判は、
既定の事実に規定の法律を適用すべき形式的論理の結論であって、
所謂
「裁判」
なる語は正義の宣言を意味し、
必ずしも人間として到底誤断を免れざる事実認定をいうものでないことは国家学の通説である。
これ天皇が正義の淵源であって、
その
第一 論者が裁判なる語は当然事実の認定を包含すべきものとするは、 文明諸邦に発達せる国家学上の定論に基くものなるや否や。 もし果して然りとせば、 文明諸邦中陪審の事実認定を以て、 裁判と称するものありや否や。 もしまた論者は国家学の通説に反し、 特に我が憲法上 「裁判」 なる語が当然事実の認定を包含するものなりとするならば、 その理由は如何。 しかも論者が唯一の理由とする所を聞けば、 法律の適用は事実の認定と密接の関係ありというに過ぎず。 果して然らば二者密接の関係あるは独り我国に固有なる特色にして、 他国になき所なるや否や。
第二 憲法は憲法自身と法律とを区別し、
憲法は重大なる国権の作用、および臣民の権利義務等は必ず法律を以てこれを定むべきものとするも、
その法律の内容如何に至りては、
憲法の
〔大正10年3月30日 『新愛知』 1面トップ論説〕