文化階級崩壊の運命
目下わが国における思想上の重大問題は、
智識階級の
眼前の政治的党派
事実を無視しないまでも、
事実を重視しないで、
ただ自己の論理的興味のために、概念の遊戯に耽っているかのごとき智識階級の改造論は、
その人たちの主観価値においては相当の存在理由を認め得るけれども、
それの社会価値にいたりては甚だ疑わしきものであらねばならぬ。
文化のための文化主義、生活価値のための生活価値論だけで、
事実を背景とし、
根柢とせざる理想論をいくら繰返してみても、
一歩といえども社会改造の完成を望むことはできない。
智識階級がその自己の
実際、今わが国の改造論は早くも思想的に行き詰っている。
思想的には到底行き詰らざるを得ないところの思索、推理に耽って、
そこに文化価値の究竟の目的を置くことが、
極めて概念的なブルジョア心理である。
ブルジョア心理から脱却しきらない智識階級の談理は、
それだけではいつまでも行き詰りのままの状態にあらねばならぬ。
目下マルクス派の唯物的社会主義経済学が、
流行を追うに専念なる評論壇から飽かれ終って、
唯心的、主観的経済説が勃興し、
更に進んでそれが神秘的、宗教的の境地にまで突進せんとするの傾向があるのは、
主として吾が国にブルジョア式心理の発揮であると云わねばならぬ。
由来、吾が国の智識階級は、現実世界の組織の欠陥を科学的に修正するがごとき論理的討究に
思想的推理の究極は、
すぐにも行き詰ってしまうものである。
いかなる大哲を呼び来って説明せしむるも、
その究竟地はすぐにも行き詰るべきはずのものである。
文化価値の設定は、思想的にただそれを設定するのが目的でなくして、
その軌道の上に吾等の現実生活を活かしてゆくべき実際的努力を試みる時に
はじめて意義があるのである。
東洋流に
「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」
というだけでは、
現実生活開展の上には意義をなさない。
道を聞いただけでは我らの生活価値は幸福にされたのではない。
道を聞いたならば、
その道の上に吾等の生活を乗せて運び終らねば、
目的は達せられない。
だから文化主義者のいうところの理想、価値、当為の発見、設定が、
人生生活の目的が完成されたのではなく、
それ以後の実行手段が伴うことによりて、
はじめて生活価値が加えられるのである。
今日の文化主義者が、
いつまでもその境地に踏みとどまっているのでは、
思想的にも、実行的にも行き詰って、
何らの価値なきものになり終るであろう。
痛切至深の現実生活開展は、
文化主義の到達し終った結論から出発すべきはずである。
評論壇上の流行思想がどう変化して行くにもせよ、
実際、改造運動家の歩むべき道は極めて
〔大正9年11月8日 『名古屋新聞』 3面トップ無署名論説〕