文化主義崩壊の原理

ブルジョア心理の行詰り

小林橘川

改造に関する論議は、 吾国わがくににありては、 量においても、質においても、 相当の広さと深さとを有する問題であるが、 それはただ現代の智識階級に共通する興味の問題であって、 深刻なる民衆の必然的要求に裏付けられたる人生の問題、 生活の問題、 生命の問題として燃焼しつつあるか否かを疑わざるを得ない。 率直にいえば、 智識階級が久しき間の生活の手段方便としての慣用手段であったところの、 論議のための論議、 生活のための論議であって、 厳密なる意味においての 生命の確信 に根ざすところの問題であるとは思われない。 たといそれが生命の確信から出発するところの真剣の提唱であるにもせよ、 ひとたび改造に関する実行運動に至りては、 遽々然きょきょぜんとして、 そこから回避し逃遁とうとんして、 われ自からの独自を固守するより外には出でまいとする。 この怯懦にしてしかも怜悧なる態度が智識階級なるものの階級的態度である即ちこれが智識階級を貫流するところのブルジョア精神である。 かかるブルジョア精神から流れ出でたる改造論が、 深刻なる民衆精神を率ゆるに足りないのは、 むしろ当然すぎるほど当然のことである。 換言すれば今日、 吾国における各種の改造運動なるものは、 畢竟ひっきょう、 智識階級の通有性なる 机上運動紙上運動印刷運動 の範囲を多く出でないものであって、 それが少しく徹底的に行われるところでも、 紙上運動の変形か延長かに過ぎないところの 講演運動講壇運動 くらいであって、 依然としてその態度は智識階級的無力の暴露にすぎない。

改造運動の方向は、 今や物質運動より精神運動に転向せんとする。 社会主義的運動から文化主義的運動に開展せんとする。 しかしそれは吾国における智識階級的思考の形式の然らしむるところであって、 すなわちブルジョア精神の行詰れる苦悶の姿にほかならない

云うまでもなく、世界文明の精神的破綻を持来したところの欧州戦争は、 その実、 資本主義的帝国主義の破綻そのものであった。 しかるに資本主義的帝国主義は、 現代の資本主義的経済組織そのものの上に根拠している。 しかもこれは現代思想の本流たる個人主義的思想の顕現であって、 近代人の思想そのものを拡充発展せしむれば、 必ず資本主義的経済組織の確立とならざるを得ない。 その弊害を匡救きょうきゅうするがために生起したと称せらるる社会主義経済学説も、 やはり個人主義的経済組織の欠陥そのものに促されて起った反対毒素であって、 その思想の中心には依然として個人主義的精神の漲溢ちょういつしていることは、 これを認めざるを得ない。 ことに新しき社会主義学説は、 マルクス派の科学的社会主義に満足しないで、 個人の自由、創造、藝術的開展を主張して、 個人主義に立ち還っていることは大なる皮肉であらねばならぬ。 この点において 社会主義経済学説が果して現代の資本主義的経済組織の病弊を一新するの力ありや否やは疑わしとせねばならぬ換言すれば今日世間一般が認めてもって社会改造の原理なりとするところの社会主義の学説が果して改造の使命を満足に遂行するに足るか否かは大なる疑問としなければならぬ

カントに還れ」 を唱えて、理想主義を生活の中心基調に設定せんとするところの文化主義者は、 その云うところに一応の理由を発見しないのではないが、 それは生活意識の第一出発点を構成するところの要素であって、 それが最後の究極点ではないのである。 第一出発点の基調そのものを、 ただちに最後の究竟点であるかのごとく誤信するところに文化主義者の誤謬がある。 文化主義者は人生のスタートラインばかりを見て、 そのコースをも、 決勝線をも見ない論者である。 いかにスタートぶりを巧妙に説いてみても、 決して人生のコースを走り出さないような選手に対して、 吾等われらは心からの喝采を浴せることができぬ。 思うに、文化主義者は人生生活のスタートぶりを言葉たくみに説くだけの論者である。 そしてそのスタートを立派に、うるわしく、巧みに切り出すことができたならば、 それで人生の理想は達成せられ、 社会の改造は完成されたのだと説くものである。 彼らは社会組織に不公正、不平等があっても、 それは人間の理想が明かに示されないためであるとする。 そして結局は、 文化主義者の中心思想であるところの個人主義は、 個人主義的思想の反映たる現代の組織そのものを大体において是認しなければならなくなってしまうであろう。 かくしてどこに改造があるかどこに改造的精神が見出されるであろうか

全体、文化主義者が好んで区別するところの 「アル」 と 「アラネバならぬ」 とが、そうはっきりと別々に存在するものなのだろうか。 西南ドイツ学派は、 「ザイン」 はいくら積みかさねても、 それはあくまで 「ザイン」 であって 「ゾルレン」 ではない、 「ゾルレン」 はいかに説明を重ねても、 そこから 「ザイン」 を引出すことはできないという。 現実からは理想を抽き出すことができないし、 理想から現実は生れないという。 しかしそれは、 形而上学的思惟の上には両者は相容れない別々の存在であるであろうが、 全一体としての人間生活の上に、 それがはっきりと別々に存在していると考えるのが誤りなのではないか。 論理的思惟の興味に没頭して、 人間を人間として見ないところに、 そうした誤謬をおかすのではなかろうか。 彼らは理想の中に現実を取り入れて活かしてゆくのが文化主義の究竟の目的であるというではないか。 「ザイン」と「ゾルレン」を全然別個の思考形式に分ちて考えていながら、 すぐその後から、 「理想の中に現実を取り入れる」 というではないか。 実際問題になると、 こうして容易たやすこともなげに 理想と現実とを一つに結び付けて知らぬ顔をしている。 土田杏村君の文化主義はその点では行詰ゆきづまっている。 これは思うに、 智識階級が久しい間のブルジョア精神の迷妄裡に彷徨して、 その境地から一歩を出づることを知らないためである。 私はこの意味で、 謂うところの文化主義では、 社会改造の目的を達成するに足りないことを断言する。

もし文化主義に学ぶべき点がありとすれば、 それは彼らが 人間というものを忘れないという点である個人というものを尊重するという点である。 これは恐らく、すべての問題の第一出発点であって、 そしてそれはただ人生の第一出発点たるだけのものである。 それから流れ出づべき改造の手段、方法は文化主義者の未だ触れ得ないところである。 文化主義がいつまでも今日のままの境地で満足しているならば、 その個人主義的立場から一転して精神主義となり、 宗教主義となり、 自足知安主義となり、 現代社会組織の全的肯定となって、 畢竟はなくてもがなの主義に堕落してしまうであろう。 土田杏村君がウィンデルバンドなどを説き来って、 宗教的境地に文化目的を設定しようとするなどはその一例である。 物質に徹底せず、 社会に徹底せず、 精神から出でて精神に還元しようとするのが、 吾国智識階級の陥りやすい弊害である。 これ、しかしながら、怯懦きょうだにして臆病なる、 しかして勇敢なる実行力なきブルジョア心理の顕現でなくて何であろう。 智識階級中流階級崩壊の危機は実にこの間にあらねばならぬ

〔大正9年11月11日 『名古屋新聞』 3面トップ論説〕

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