「文化主義崩壊の原理」を読みて
小林橘川君に呈す (上)

鵜飼桂六

「文化主義崩壊の原理」 は、 さすが小林君の霊筆れいひつに成るものだけあって、 すこぶる徹底せる御名論である。 全文を三段に分ちて一、二、三とし、 最初は智識階級のブルジョア精神をなじり、 次に社会主義の学説を果して改造の使命を有せりや否や疑わしと責め、 最後に文化主義の論理的矛盾を攻撃しておらるるにあたり、 さながら無人の境を行くがごとき感がある。 殊に 「土田杏村君の文化主義が『理想の中に現実を取り入れる』と言うのは行詰ゆきづまりである」 と指摘し、 進んで 「今日のままの境遇で満足しているならば、 畢竟ひっきょうなくてもがなの主義に堕落してしまう」 と喝破し、 更に 「怯懦きょうだにして臆病なる、 しかして勇敢なる実行力なきブルジョア心理の顕現でなくて何であろう。 智識階級、中流階級崩壊の危機は実にこの間にあらねばならぬ」 と論結せられたるのは、 私の双手そうしゅを挙げて賛意を表せざるを得ざる点である。 しかしながら、 ただここに一つ遺憾に思うところは、 社会主義学説に対する誤解であって、 頭脳の明晰なる小林君にして妄見を抱かるることなおかくのごとしとせば、 いずくんぞ敢て申さざらん。 即ち本文を草して、もってこれを小林君に呈する次第である。

産業革命によりて起りたる資本主義的経済組織の下にあっては、 資本は最も有力なる生産上の武器として取扱わる。 これは明かな事であって、 資本さえあれば、土地、機械、工場、建物、労力、その他一切の何でもをあがない得るという思想が、 現代のあらゆる階級の人々を動かしている企業精神である。 したがってかる社会においては自由競争制度が認められ、 私有財産制度が容れられる。 言い換うれば、個人的自由主義——個人主義的自由思想が暴威をたくましうするのであって、 その当然の帰結として、 ここに個人主義的経済組織の形式を採るにいたる。 しかして一般の経済学が社会科学の範疇に属していて、 唯物史観の上に立つべき性質のものなるかぎり、 それは富の生産、分配を公平に、適切に調節する事を教うる学校であらねばならぬことは言うまでもない。 然るに、現代の資本主義的経済学説は主として生産の大量を説くばかりで、 一向に分配の方を顧みない。 否、生産の大量よりは、ひたすら営利主義を主張し、 剰余価値のより多からんことをのみ望んでいる。 しかもその極端は、 一度生産せられたるものを空しく消費するというがごとき状態となる。 たとえば米国のごときは、 麦が出来すぎたと言っては、 市価の低落をおそれて、 これを焼失し、 米穀が豊作だと言っては、 これをみのらぬうちに若干刈り取る。 そこで私は常に言うのである—— 曰く、現代の資本主義的経済組織の下にあっては、 営利それ自身が企業の目的であって、 そこには生産も交換も分配も消費も何物もない、と。

〔大正9年11月16日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

目次へ戻る