濱阪葉子女史へ (上)

大阪 河野清光

僕は名古屋とは交渉のない者だ。 したがって貴女あなたが如何なる人間であるかは知らないが、 ふと 『新愛知』 を読む機会を得て、 この欄で貴女の 「くるしみ」 を見て、興味を覚え、何かなし書いてみたくなった。

貴女は、 「女は相手方の男性の性格すらうかがう自由を許されぬ場合が多い」 と云っているが、 これは女に限った事ではない。 男でも自ら妻を尋ねる者は少く、 父兄親族らが勝手に定める場合の方が多い。 しかしこの双方共が本人をいて騒ぎまわり、 一回の見合で一生の伴侶を極める等は、 少し覚めた者のとらぬところだ。 旧来の道徳かならずしも守るを要しない。 古来、親に告げて理解せる妻を娶った賢者は少くない。 帝舜を見よ、近江聖人を見よ。

「B子はたとえ名ばかりの妻であるにもせよ、法律は彼女に男性との交渉を絶対に許さない」ことは少し無理である。 この法律は早晩、男子にも同様になるだろう。 しかし真にB子がこれを苦痛とするならば、 何も名のみの妻を継続する必要はない。 どしどし離婚の訴訟をなせばよい。 これは法律も道徳も共に当然とするところだ。

「教育者の説く良妻賢母主義はあまり奥行がない」 とは至言である。 いやしくも良妻賢母を説く者は、 現に良妻賢母でなくて理想的ではないか、 これは望むべくもない独身者の多い状態ではないか。 しかしそのために砂上の楼閣たるのは、 罪半ばは教えを受ける方にもある。 何となれば師は産婆である。 自ら考えを生み出さぬ者に生み出させることはできぬ。 教育者は主義の方向を示すのみで、 これ以上責めるのは誤りであろう。

殊にその例として細川夫人を挙げて、 「そのクリスチャンである事を知らねば、真にその人を知ることにはなるまい」 とは、 ヤソを愚にし、夫人を侮るものではあるまいか。 自殺は罪であるが、善のために身を捨てるはヤソ自身も取った道ではないか。 彼は自ら死を招いて人間の罪に代るを傲語した法螺吹ほらふきではないか。 細川夫人は戦国に生れたから、クリスチャンであっても、古来の神道儒道仏道の影響を受けているはずだから、 貴女のごとくヤソを曲解することはあるまい。 もし貴女の推察が当って、夫人が他の人よりも苦痛を感じたとしたら、 夫人が武士の娘としての教養が足らない事に帰着しないだろうか。 貴女がそう解釈するのが、偉大ならしめる所以ゆえんだと信じるなら、そうするのはよい事だが、 一般に対しては如何であろう。

また私の説としては、こんな現代に縁の遠い例を百千並べるよりも、 新聞の三面、婦人雑誌にある 「不身持ふみもちの夫を持って」 等の実例について心得を説く方がより有効であろうと思う。 それについて思い出すのは、十年ほど前に或る女学生の試験答案を拾ったが、 その問題に、 暴力をもって挑まれた時の心得、 青年との交際心得があったことだ。 教育者を責めることはこれくらいで止めても、 またあながち被教育者もこの上に責めることはできない。 教育は社会と学校と相俟あいまって始めてその効が挙がるので、 相反する時には甲斐が少いのみならず、 害になることもある。 徹底せぬ教育者、自ら発せぬ女は、ともに社会教育の不充分から生れたのである。

この社会と学校の教育が不一致のために、深い信念を持ち得ず、跪いて、 結婚の失敗者、生ける屍となった貴女は、 お気の毒と申し上げるほかはないが、 既往をくよくよ思うより、 自分の、または子孫の将来の策を講じるが賢明であろう。

「童貞と犬のおあずけ」 とは何たる侮辱だろう。 しかもこれが大勢だから、なおさら慨嘆の至りだ。 童貞の尊重すべきは処女と何ら変りはない。 男子の貞操に対する感念のないのも、 また女子と同様、擯斥ひんせきすべきだ。 この意味において、某処女会が、花柳病男子と結婚せぬと決議したのを快よしとし、 さらに会員の処女たる事を確実に保証し、男子に童貞を要求することが、 処女の権利を主張し、男子の覚醒する所以だと思う。 もちろん男子自身がこの態度に出るのが本態であり、私の望むところだが、 男子の横暴を防ぐのは、処女の強固な結束による他はない。 もしその結束が不確実であったなら、 その結果は統一なき同盟罷工と一般、 得るところ少く、失うところが多いだろう。 こんな事は貴女にはもういう必要がないかもしれぬが、 一度あった事は二度ある。 次に来る妹たちを導く、失敗した姉の心得だろう。

〔大正9年12月10日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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