独り強がりを嗤う (上)

悠々生

鵜飼桂六君が突如として、 物宗より霊宗に改宗し、 そして私がこれを称揚したために、 二人とも伊藤五城君から 「ひとがり」 だといってわらわれ、 且つ痛くお目玉を頂戴した。 けれども、 この場合、 伊藤君こそ真の 「独りよがり」 であり、 少くとも独り強がりであって、 私どもが物質的生活の執着から離れて、 精神的生活に入らんとするに至ったのは、 そこに大なる理由のあるからである。

伊藤君は物質的生活に対する私どもの消極的態度を見て、 まず 「めくらにわか目明めあきになって、 汚いものを見たといって、 ああ元の盲がよかったといったようなことだ」 と評している。 そうだ。 私どもはなまじっか目明であるよりも、 盲のほうをえらびたい。 目が明いて汚いものばかりを見せつけられるよりも、 盲であって、 それを見ないほうがどれほど幸福であるかもしれない。 否、 なまじっか目が明いていても、 物の本体を見ることができず、 自己の小主観にとらわれて、 ただその外見をもって本体を推し、 よって以て得々たるが如くんば、 私どもはいっそ盲であって欲しいのだ。 群盲ぐんもう 象を評して誤るよりも、 精神病者、 誇大妄想狂が幻影を追うて、 ゲラゲラ笑っているほうが一層あわれである。 塙保己一はなわほきいち ではないが、 目あきというものはさてさて不自由なることが多いものである。

私どもは動揺と不安のうちに煩悶、焦慮して居る、 近代的の生活に齷齪あくそくして居るよりも、 日でて耕し、 日入って憩う、 帝力ていりょく我に於て何かあらんという単純なる、 むしろ原始的の生活が恋しい。 私どもに絶大の偉力があり、 動揺と不安の雑草を抜いて、 そこに平和なる理想の松を植えつけることができるならば、 私どもは伊藤君と同様、 安価なる楽観にふけることもできよう。 多寡たかが知れた人間わざをもってしては、 到底物質的に最終の目的を達することができないと知れば、 いきおい物質的の生活に対して、 回避的、 遁逃とんとう的の態度を取らざるを得ない。

トルストイは煩悶の極、 幾たびか自殺せんとした。 彼の生活、 彼の思想の上には幾多の苦痛なる変遷ないし動揺があった。 彼はこれがために悶死せんとしたのであった。 けれども、 彼はかくして最終には農夫の単純なる信仰に戻った。 そして悪に対する無抵抗主義を唱うるに至った。 悧巧に見えても、 力のない人間の落着くさきは大抵決っている。 伊藤君はさだめてこのトルストイをも 「独りよがり」 といい、 彼を以て 「全然卑劣な懶惰らいだな思索家」 と評し去り、 「彼は何故にそんな雲水の一年生のような生半可なお悟りに満足しているか」 と罵倒するであろう。 けれども、 トルストイであったればこそ、 こうした悟りに到達したのである。 世の常の凡人であったならば、 終世煩悶して死にもせず、 猿のごとく水中の月を捉えんとしてもがいたことであろう。

私どもは臆病であり、 そして力がないために、 水中の月を捉えんとするほどの勇気はない。 私どもは伏して水中の月を見ると同時に、 仰いで天空の月を見て、 そのやけき光を愛し、 子供のように竹竿をついてまで、 これを叩き落そうともしない。 そして雲がこれをさえぎれば、 自然に雲の過ぎ行くのを待っているばかりである。

伊藤君は 「富者が不道徳であるのは、先天的原則ではない。 ただ歴史上の事実だけだ」 といい、 「富者が不道徳なのは富者が富者たるためではなく、 富者たる人間が不道徳なのだ。 或いは富者の存在する社会が不道徳なのだ」 と断じている。 したがって彼はその結論として、 「富者の不道徳を匡正きょうせいする根本的方法は、 富者をして貧者たらしめるにあるのではなくて、 富者たる人間を改善し、 または富者の存在する社会を改革するにあるのだ」 といっている。 こうした議論の立て方には一点の間違いもない。 それは否むべからざる真理であろう。 けれども、 実際これを断行し得るものは、 道徳の上においても、 意志の上においても、 身体の上においても、 偉大なる英雄でなくてはならぬ。 少くとも、 思想上において伊藤君のごとき 「独りよがり」 であるか、 「独り強がり」 であらねばならぬ。 私どものごとき弱者は、 富に対しては萎縮し、 回避するほかどうすることもできないのである。

富者そのものが不道徳でないことはいうまでもない。 私どももこうしたことを断言するほど無智ではない。 けれども、 富は権力と共に、 自然的にその所有者を不道徳ならしむる可能性がある。 釈迦はその理想的なる生活を断行するため、 富を棄て、 権力を捨て、 妻子珍宝をなげうち、 一切の物質欲から脱離したではないか。 釈迦にしてすらそうであったとすれば、 凡人が道徳的となるには富を捨てた方が安全である。 否、 釈迦であったればこそ、 かくして富を捨て得たのであろう。

キリストもいっているではないか—— 富める者が天堂に生れるのは駱駝らくだが針の穴を通るよりもかたい、と。 富を有して道徳的の生活を営むことは、 釈迦でもキリストでも困難とするところ、 まして私どものような凡人が富を有していては、 その生活が、 ともすれば不道徳がちとなるのは当然のことである。 伊藤君の謂うところ 「富者の不道徳を匡正し」 「富者たる人間を改善し」 「富者の存在する社会を改革」するものは、 富者にはできない仕事であって、 それはただ貧者にのみ残されている仕事である。 この仕事をなし得るのは資本家でなくて、 労働者だけである。 ただこの場合、 問題となるのは、 これを物質的に試みるのがいいか、 精神的に試みるのがいいか、 これである。

〔大正10年5月20日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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