宣伝に碌なものなし
宗教思想宣伝観
一
今日は宣伝流行の時代である。
思想宗教文藝方面の問題から社会改善、生活改善にまで宣伝なる言葉が濫用せられ、
甚だしきは貯金、保険、防火、交通、衛生など、
卑近なる日常生活の問題に至るまで、宣伝なる名称によりて、
各自勝手の自己吹聴が行われている。
宣伝とは畢竟、手前味噌の自家広告という意味を流行語に云い表わしただけのものである。
それ故に、今日のごとく宣伝の乱用せられる時代には、吾等は宣伝そのものに取捨選択を加えなければならぬ必要がある。
即ち紛々として際限なき多くの宣伝を整理淘汰するの必要がある。然らば、これら雑多の宣伝をいかにして整理淘汰するか。
そはただ一言にして足る。
云わく、「宣伝に碌なものなし」との信条を吾人が銘記すれば足る。
然り、「宣伝に碌なものなし」
二
ことに思想上、宗教上の宣伝そのものばかり無内容にして空虚なるはない。
他の問題は暫らく措き、
目下の吾国に流行しつつある思想運動、宗教運動ばかり無内容にして空虚なるはない。
彼らの叫びは中心の無内容、中心の空虚に堪えずして徒らに発するところの悲鳴である。
彼らは宣伝するの必要なくして宣伝しているのである。
宣伝すべき中心思想の価値およびその地位を諒解しないで宣伝しているのである。
極端に云えば宣伝することそのことに無限の興味と価値とを感じているのである。
ただそれだけである。
それ以外にも、それ以上にも何らの価値はない。
凡そ宗教運動、
思想運動において今日ばかり低級浅薄愚劣凡俗の思想が自家広告を恣にしている時代はない。
伝教大師の千百年に当ると云えば伝教が軽率にただ二三の歴史学者を雇い来りて宣伝せられ、
弘法大師が千何年かの記念に当ると云えば、弘法宣伝がヒステリックに行われ、
聖徳太子の一千三百年だと云えば、
事もなげに聖徳太子の宣伝が際物師的の学者によりて行われる。
同じ意義において日蓮主義が宣伝せられ、
親鸞主義が高調せられ、精神主義が宣布せられ、
無我之愛が唱道せられる。
而してそれらを包擁して一大極楽世界を建設せんとするの大乗運動さえ起されている。
事に携われる人々は一生懸命で、
真剣な仕事であろうが、
吾等から云えば浅薄卑俗、浅劣凡愚、哀れむべきものに観ぜられるのである。
これらの宗教思想運動は、小さき過去の歴史に膠着して、社会の進歩、人類の発達性を如実に見て居らぬ。
だからその説く所は、いかに勇壮であっても、新しき世界を開展すべき力は生れて来ない。
ただ一部の法華経を読んだが故に法華経を最上なりとし、
ただ一部の三部経を理解しただけで三部経を最上なりとし、
ただ一部のバイブルを読んだがためにキリスト教を優れたりとなすなどは、
余りに小さき見解である。
井の底蛙に世界は分らぬ。
一教、一宗、一派、一部に偏執するものの宣伝は要するに知るべきのみである。
三
併しながら元来、宗教なるものは個人的のもので、
個人的の信念を離れて宗教はない。
かくの如く宗教は個人的なるがために、
他の承認を要求するのである。
他の承認を強ゆるためには古来血を流すの例すらあった。
宗教宣伝の力を生じ来るは、かかる宗教の強烈なる個人性によるものである。
宗教はこの意味において偏見、邪執に充ち、善意に云えばいわゆる破邪顕正の働きを起すものである。
古来、宗教には「我仏尊し」との俚諺すらありて、
我仏の価値が必ずしも一般的承認を得るものでないことを諷刺しているのは皮肉である。
されば宗教思想の運動は統一を期する事は宗教本来の性質に背くものであることが分る。当今の政治家、宗教家に中には思想統一の可能を信じ、その必要を力説しつつあるものもあれど、
かかるは思想そのものの本質を理解せざるより起る錯誤でなければならぬ。
四
しかし、宗教は個人的信念であって、
普遍的、哲学的基礎に裏ぎられずしても存在し得るものであるから、
信ずる個人にとりては絶対である。
宗教を迷信と正信とに分つものもあるが、
信ずる個人にとりては如何に低級なる宗教的信念でも絶対的価値を有し、
その人にとりては迷信と否とを論ずる要がない。
天理教や大本教やその他の禁厭的祈禱宗教もその点では存在の余地がある。
宗教はそれ自分の性質として宣伝作用を必要とする。
それは高級宗教においても、低級宗教においても同一である。
しかし宗教をもって数量的に国民の心理を統一せしめようなどと考え、
また国民を数字的に統一せしむるなどと考えるならば、
それこそ思わざるの甚だしきものである。
しかしながら宗教が哲学的、普遍的、合理的基礎を豊富にすればするほど、
その宗教の個人性を喪失して、宣伝的熱意を減殺するを免れない。
高級宗教に宣伝的気力の欠け、
低級宗教になるほど宣伝的気力を増進するものである。
この故にいう——宣伝的熱度の高きだけそれだけ普遍的、哲学的合理性は稀薄である。
更にいう、「宣伝に碌なものなし」と。
〔大正10年5月22日 『名古屋新聞』 3面トップ無署名論説〕