職業的社会主義者

龜田了介

二三年以前、 オイケンやベルグソンが流行はやったように、 去年あたりからマルクスが流行り出して、 猫も杓子もこれを口にするようになった。 そしてつい二三年以前は精神生活に憧憬していた手合が、 昨今では唯物主義に改宗して、 盛んに現代社会の欠陥などを指摘して喜んでいる。

昔から君子は豹変ひょうへんするものと相場がきまっているから、 これくらいの事は格別問題ではない。 しかし、この一事に徴して、日本人は創造の能力乏しく、 すこぶる模倣性に富んでいることが分ろう。 オイケン、ベルクソン、ニイチェ、タゴール、それから昨今流行り出したマルクス、エンゲルス、 甚だしきものに至るとクロポトキンまで、 片っ端から鵜呑みにするのだから驚く。

この鵜呑みにした全部が消化されて、 栄養として吸収され、 血となり、肉となるかは疑問である。 けれども昨日はオイケン、 今日はマルクスと受入れて、 これを口にし筆にし、 果ては人真似しようとする所に、 日本人の偉さと誇りとがあると思う。

欧米が一世紀もかかってやっと出来上ったことを、 僅々きんきん二三十年にして覚えたと、 世界に向って誇り得るのも、 要するにこの国民が人真似が上手であったからである。 故にこの模倣性すなわち人真似は日本人の美点として、 今後永久に保持して行かなければならない。 もし日本人からこの模倣性を除いたなら、ゼロである。

しかし、この模倣性は美点であるとともに、 また大なる短所である。 例えば、 の貧乏者や遊惰ゆうだ者の悲鳴たる社会主義的思想がまたたく間に瀰漫びまんして、 国家民人を憂うる人々の心胆を寒からしめつつあるのは、 結局この模倣が度を越したためである。 相当思慮あるはずの帝大助教授がクロポトキンの鵜呑み宣伝をやって処刑されたくらいだから、 一般国民がちょっと耳に響きのい社会主義に感染かぶれるのは或いはむを得ないかもしれない。 けれどもこうした人真似は私のとらないところである。

私といえども社会主義は理論としては堂々たるものである事を知っている。 しかし、どうせ実現されないものなら、むしろこれを口にし、 筆にしない方が好いと思う。 ただし、議論のための議論であって、 その実現のごときもとより眼中に置かないと云うなら、 それまでであって、 私は何とも云わない。

もし社会主義を口にし筆にする人々にして私のこの言が癪に触っても、 その所有する全財産を投げ出し、 監獄に行く事や、 絞首台の露と消ゆる事を恐れずに、 主義のために、 しかして信念のために一身を犠牲に供する覚悟がなければ、 私の面皮をぐわけにはゆかぬであろう。

現代の青年は、そのことごとくが社会主義を口にする。 けれどもその思想に何らの根柢なく、 ただ単に書籍や雑誌でこれを読み、 例の模倣性から人真似がしてみたくなって、 これを口にし筆にするまでである。 すなわち彼らは原稿料に衣食している所謂いわゆる職業的社会主義者の受売りをしているに過ぎないのである。 二三の親不孝連中がパンを得るために書いた書物を読んで、 これに感染れ、 前途ある青年が相次いで親不孝者たらんとしているのは、 実に憂うべきことである。

ただ私の不思議に感ずるのは、 数年以前までは 「社会」 という文字の書籍を読むと危険人物として取り扱われたのが、 昨今では公然社会主義を口にして、 誰も怪しまなくなったことである。 否、 これを口にせぬと偉くないくらいに思われている。 私はその余りに変化の激しいのに驚くのである。

社会主義的思想が滔天とうてんの勢いを以て流行り出した半面には、 必ずや為政家の考慮すべき何物かが潜んでいるに相違ない。 しかしこの社会的欠陥と、 而して日本人の模倣性とに付け込み、 自己のパンのために国家を危くする思想を宣伝するの職業的社会主義者は、 大和民族にとってはパルチザン以上の大敵である。 私は青年が彼らの職業的宣伝に感染れ、 親不孝の徒とならぬことを希望する。 (5・20)

〔大正10年5月23日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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