貧の価値 (上)

鵜飼桂六

さきに私は私の思索集の中より、 敢て 「経済詩論」 の一篇を公表しておいたが、 なお本篇はその続稿に属するところのものである。

人は生れながらにして、 何物といえども創造し所有し得る努力を払っていない。 すべてが凡てのものの所有であるごとく、 凡ては凡てのものにって創造せられている。 見よ! 向うの山、 蒼穹そうきゅう、 太陽、 月、 星、 海、 鳥、 獣、 虫、 魚、 草、 木、 石、 水、 光、 空気、 土壌等、 ことごとく皆一つとして大自然の所有物たらざるものなく、 大宇宙の創造物たらざるものなきことを。 この故に私は信ずる、 人間が人間のあたうかぎりの労力をもって生産せしところのものに満足することなく、 永遠に飽くなき所有慾望の奴隷となって、 盲目的に物質的享楽資料を求めて歩くならば、 そこには 「ただ死の陥穽かんせいあるのい」であると。

しかり! 死こそは物質的享楽主義の凡てであり、 最善である。 いな、 更に切言せつげんするならば、 やがてまた 「全人類の滅亡の時」 こそ、 真にく物質的享楽主義の完全に実現せられた 「最高善」——恐らくば——否、ほとんど確かに——「最高悪」——の理想世界であらねばならぬ。 されどしこれを根本より否定せんか、 ついに其のものは物質的享楽主義の世界より解放せられて、 精神的理想主義の天地へ驀進ばくしんして行くのである。

く論断すれば、 人あるいは私を難じて言うであろう——「物」は汝の論ずる如くしかく卑しく、 「霊」は汝の説く如く爾く高きものにあらず、 「物即霊」 「霊即物」 である、と。 然り——或いは然らん。 然れども、もし斯く論ずることを以て正しとすれば、 世には絶えて正邪善悪の区別あることなく、 宗教が持つ言葉の内容も、 藝術、 科学、 哲学、 道徳、 倫理等の各々が持つ言葉の内容もまた相等しという結論に到達するとともに、 泥棒することも聖人の道にかなえば、 詐欺師のなすことも君子の法に合致すという詭弁に陥るわけである。 (ところが最近、名古屋の思想界では、 水野昌蔵君や伊藤五城君や小林橘川君等がこういう詭弁学派に傾倒して居られるようである)。 しかし私はこれを否認する。 私は依然として泥棒を嫌悪し、 詐欺師を排斥するの時代おくれたるを恥としない。 何故なら、 如何に制度や組織が不完全であり、 不完備であるにしても、 着るがため、 食おうがため、 住まんがためぐらいならば、 敢てよく乞食こじきすらもこれをなしつつあるからである。

斯く言えばとて、 私は決して 「物即霊」 「霊即物」 ということの純理を承認しないものではない。 むしろかえってこれを提唱することにおいて人後に落ちざるところのものである。 されど今日謂う所の 「物即霊」 「霊即物」 という議論は、 主に物質主義者が、 自己の立場を弁護せんために用うるところの一つの詭弁法きべんぽうであって、 何ら根柢ある基礎の上に確立せられたところの真実の叫びではない。 換言すれば、 今日の 「霊肉一致論」 なるものは、 近世紀における露のメレジュコフスキーや、 諾威ノルウェーのイブセンなどが、 つとに唱道したる 「霊肉一致論」 や 「第三帝国」 等と、 全然相異なった内容の上に盛られたところの空理空論であって、 謂わば 「霊肉一致」 の名のもとに、 飽くなき所有慾望を充たさんとするものの好餌こうじに使われたに過ぎないのである。 これをしも偽善、偽悪と言わずして、 何をか偽善、偽悪と断じ得よう。 (敢て水野昌蔵、伊藤五城、小林橘川君等の猛省を促す)

〔大正10年5月27日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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