雑感

渡邊光一

最近の本欄は、むつかしい譬喩ひゆや哲学めいた論理で、 学問のない我々にはよくわからぬ。 が、おぼろげながらつかんだ大綱は、 唯物論と唯心論との戦いで、 しかも後者の旗色がよい。 物質万能時代の反動として無理もないことだ。

我々俗人の眼から見ると、 これらの学究的論者は、 皆一方にこだわれている。 或いは物を主とし、 或いは心を主とし、 各々これに膠着して永久不変の真理を発見せんと努力しているようだ。 霊と体とは、考察の便宜上、別物として取扱われるけれど、 元来離すことのできない、 したがって唯物といい唯心といい、 ともに一面の観察であって全班ぜんぱんではない。 それが時代によりて或いは唯心全盛となり、 或いは物質万能となるに過ぎぬ。 波の高い日に海水浴をしていると想像したまえ。 波の頂きにいる人が、 この海は深いと云い、 波の谷にいる人が浅いといったら、 その愚をあわれまぬ人があろうか。 唯心唯物のいがみあいも、 ちょっとこれに類するように思われる (各自分の立場に拘れている所が)。 論者はもう少し高い所から見たらどうか。 波の押しよせるように物心両思想が代るがわる高潮せられる中に、 潮の満つるがごとく社会が進歩するのだ。 個人について云えば、 社会ほどには甚だしくはないが、 年齢と境遇とにより、 或いは物主となり或いは霊主となる。 その一方に執着してかわらぬ程の信仰の堅い人は稀である。 鵜飼君のいわゆる改宗のごときも、 動揺しやすい青年として有りがちのことである。

「到底求められぬものを求めて煩悶するよりも、 貧乏に安んずるの道を求めよ」 という悠々先生の教訓は、 最も通俗で且つ偉大なる教訓である。 家庭においても学校においても、 幼少から 「上を見るな。 身の程を知れ」 という思想で教育せられた私は、 何だか古い知己ちきったような なつかしさを禁じ得ない。 しかし新興国の青年が果してこれに安住し得るだろうか。 功利を第一の政策とせる現在国家国民に対して、 果して適切なる教訓たり得るか。 貴族富豪のすばらしい贅沢ぜいたく——昔なら至尊しそんしのぐというので闕所けっしょになるほどの——を羨望驚異の眼を以て見るところの現社会とは、 あまりかけはなれた教訓ではあるまいか。 思想家とか宗教家とは云わるるほどの人が中流以上の生活を維持するに汲々としている間は理想にとどまるのではないか。 先生自身が貧乏に安んじ得ないという事実がよくこれを証明している。

最近の趨勢すうせいは、 唯物思想のすばらしい勢いがちょっとくじけたけれども、 片田舎の人ほど霊主物従の思想に富むのが現代の習いであるから、 唯心論が社会を支配するのは遠き将来を待たねばならぬ。 天下に先立って憂うるところの志士は、 目前の事実に拘るることなく、 将来を達観して霊の価値を高潮し、 物質万能の趨勢を調和するとともに、 来るべき唯心時代の培養に努めねばならぬ。

私の言、もとより短見で独断で浅学で、 取るところもないが、 今一言云わしめたまえ。 「地獄の道も金次第」 ということわざは仏教が普遍的に勢力を得るとともに出来たものだ。

〔大正10年6月8日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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