所謂問題喰い屋

龜田了介

すべて何事でも富士山のようなものであって、遠くから眺めているとすこぶる立派に見ゆるけれども、その楽屋をのぞくと、何となくその人物なり、または問題なりに対して、尊敬の念とか、或いは興味とかいうものが自然に失せてくるものである。 私は過去数年間、新聞記者として多くの人に接し、また多くの事物に接するごとに、この感に打たれるのである。

例えば大正二年九月の南京事件の時でもそうであった。 私は未だ十七ぐらいであったが、東京に出た年に憲政擁護運動に出会でっくわして少からず政治熱に浮かされていた時代であったから、この南京事件にすっかり憤慨してしまい、かの岡田滿が阿部政務局長を暗殺して、角田知良氏の居宅で自殺した時なぞは、 「彼は真の日本青年なり」 などと騒ぎまわったのである。

然るに、その後、当時所謂いわゆる志士として同事件のために奔走した某氏から、当時の楽屋話を聞かされて、私は所謂志士なる者が頗る怪しいものであると思った。 しかしてこの時はじめて所謂志士——問題喰い屋——が世間に害毒を流し、つ青少年の前途をあやまることを知ったのである。

それから、一昨年十二月中、栃木県会が、足利中学校設置問題が因を為して、修羅しゅらちまたと化し、白昼県会議員が一兇漢から玄能げんのうの見舞いを受けたその日、政党の懸引かけひきから私が先頭に立って壮士二十余名を率いて中立議員の宿泊せる旅館を包囲して脅威し、遂にその日の県会を流会に終らせた時である。 翌日の各新聞には私のこの行動が讃美されていたのである。 しかし、楽屋の事を余りにく知っていた私は、或る事情から殊更演じたこの事件が、血気にはやる青少年を毒することの尠少せんしょうでないことを一層痛感したのである。

その場限りの屁のような政治問題でも、これを喰い物にして騒ぎまわると、少からず社会を毒するのである。 これがし思想的背景を有するものであったならば、その害毒の波及する範囲は到底政治問題の比でないことを思わねばならぬ。

私はかかる意味において、 過般かはん本欄において 職業的社会主義者 に関して一言しておいた。 しかして二三反響があったが、何れも社会主義の講釈ばかりであって、私を首肯せしむるものがない。 今日では社会主義の講釈ぐらいは誰でも知っている。 ただ、社会主義なるものが実現されるや否やが問題である。 もし現代には実現が至難であるとしたなら、これを口にし、筆にした所で、結局無駄だから沈黙だまっていた方がいのだ。

日本の社会主義者は目下各所でいろいろの芝居を打って、社会主義者の存在を認識せしむべく、努力しているようである。 しかし、それがいずれも自暴自棄から来ているらしいのは一体どういう訳であるか。 もちろん無理解なる官憲の圧迫も、幾分手伝っているだろう。 けれども、真に主義のためにやるなら、無銭飲食、家賃の踏み倒し、それから赤旗などをてて騒ぐ以外に今少しく何とかるべき手段があるはずだ。

世間では、社会主義者と云えば何れも非常に頭脳がよいように思っているが、これが前記の遠くから見ているからのことであって、二三の学究的人物を除いては大概焼付刃が多いのである。 現在名古屋においても真に理解があって活動している人達は少いと思われる。 社会主義と労働問題とをごっちゃにしておりながら、これで一廉ひとかどの社会主義者を以て任じているのは、実に臍茶へそちゃの次第である。

労働問題喰い屋も社会を毒する事においては、職業的社会主義者と同然である。 一昨年の足尾騒動の際、筋肉労働者のために万丈の気を吐いて、近く入監する京谷周一君が、過日私に向って、 「私は実際運動からは勉めて遠ざかろうとしている。 単にわいわい騒いだとて始まらない」 と語ったことがあるが、この京谷君の言葉こそ現在労働運動のどんなものであるかを暗黙の間に物語っておりはせぬだろうか。

道途どうとの風説によると、原内閣は今後一層危険思想の取締を厳重にするそうであるが、これは頗る結構のことである。 に云わせると、河上肇博士の云うごとく、危険思想を抱いている者に対しては厳罰を課するに限ると思う。 こうすれば生命が惜しいから、好い加減な焼付刃は自然消滅するわけで、頗る好結果をもたらすであろう。

〔大正10年6月10日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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