既成宗教の改造を読みて (上)

石川爐山

先日御紙によって 既成宗教の改造 が叫ばれた事は、 吾々われわれに光の近づきつつあることを暗示したもので、 吾々は衷心より歓喜したのである。

私は僻地の一雛僧すうそうに過ぎぬのであるが、 吾々にも既成宗教は改革されねばならぬと思わるるほど、 堕落して、無気力であり、無意義で無活動である。

これが改造の宣伝は吾々の鶴首かくしゅして希望していたところである。 しかも御紙によって絶叫せられたことは吾々読者として満足するところである。

各方面に宗教の改造が叫ばれてから、 幾時日を経過したであろうか。 その間、何らの反響も見なかったのである。 殊に昨年、雑誌 大観改造 において大家の論説が掲載され、宗教改造の大宣伝がなされたにもかかわらず、 既成宗教やその僧侶に何らの曙光も見えなかったのである。 わずかにあったのは保守的の人のますます固陋になったことである。 自己弁護に長じたことである。

何故この宣伝に相呼応して宗教改造に参加すべき僧侶が出ないのであろうか。 僧侶の神経は麻痺しているのか。 ここに至って、現在僧侶に自覚を促すは至難であり、 そして現在の僧侶は宗教改革に参加すべき資格を失しているとされるのも当然である。

かく識者より見放されたることは、 現在僧侶の愚蒙ぐもうを裏書きされたことであるのに、 黙として恥じざるのみか、 依然として旧慣を墨守し、 彼らは生命なき形骸に囚われているに至っては、 その不甲斐なさ、呆れるばかりである。 かかる無気力なる僧侶なるが故に、 その生活においても矛盾撞着、甚だしく迷乱しているのは無理もない。 さればここに其の生活を忌憚なく暴露して、 大方の諸賢に改造に指導も仰ぎたいのである。

口を開けば信仰を説き、 人に逢えば必ず慈悲を説く僧侶は、 はたして燃ゆるごとき信念を保持しているかというに、 事実は愛慾に燃え、物欲に沈淪ちんりんしているのである。

信仰を勧め善行を説き、 指さすに高遠なる理想を以てするも、 彼は名利のためにこれを道具に用いているに過ぎぬ。 たまたまこれが迷蒙を攻め、 改造を促す人があれば、 「言うは易く、行うは難し」 と聖賢の言を借り来って、 自己の無活気を暴露している。 なるほど僧侶の境遇は時間の上にも、 経済の上にも、 余裕は無いようである。 一方、大なる伽藍と広漠なる境内を擁して、 これが経営を勉めねばならぬ。 一方には多数の檀家を有して法務をつかさどらねばならぬ。 妻子家庭の扶養もその責任である。 実に多忙多繁で、ほとんど年内の活力はこれに消費されているであろう。 しかし、 人類救済を本旨とする僧侶がこうした自己中心の事務に没頭しているのは自己撞着ではないか。

近時、 彼らは社会事業にも少しは手を染め、 少年教会、 日曜学校、 青年、処女、在郷軍人、婦人、敬老会、その他あらゆる団隊的会合に列席しているようであるが、 その精神は那辺にあるか、 自己最善の使命である人類救済の誠意に出たものであろうか、 甚だ疑わしいのである。

私は思う、 これは何か為にするところあっての自家広告であり、 もしくば大勢の推移に洩れざらんとする自家防衛に過ぎぬではなかろうか、と。 とにかく、 現在、僧侶が無気力であり、 衷心からの誠意なく、 また真に慈愛の念無きことは明かである。

無常は換言すれば進化の理法である。 常に進化を唱道する僧侶が進化に後れ、 敗残して葬り去られんとするのは実に笑止である。 しかしそれは自業自得であって、 その原因は彼らの無自覚に存している。 惰眠を貪って仏教の精神にもとり、 釈尊の本旨に背いたからである。

〔大正10年6月11日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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