鵜飼氏の貧乏理想論を読む

一宮 杞憂生

この頃来「貧乏理想論」という評題の下に一より四にわたれる長篇の御名論を拝読したる一人である。その論ずるところすこぶる斬新で、しかして熱誠ねっせいであるかのごとく見られるが、しかしこれを熟読玩味しつつある中に、ずいぶん突飛な議論が見出さるるのである。その肉欲主義を排斥して無妻主義を論ぜられたり、或いは無産者の同盟を論ぜられたり、或いは原始的宗教に還元すべく論ぜられたり、なかなかにあらゆる方面に研究論議されたるがごとくであるが、日蓮主義を偏狭固陋なるものと論断せらるるあたりは、あまりに日蓮主義そのものに接触せられざる言分ではあるまいか。いな更に日蓮聖人の教義に触れられざるものと見做すべきの暴言ではあるまいか。

世には言論の自由なるものありて、何人も自己の思想を勝手次第に吹聴するの権利なるものは存在するも、この言論は余りに脱線的のものではないか。盲人めくら蛇にじずとの俗諺ぞくげんに漏れずして、その研究なく思索なく漫然無責任なる言論を弄するは、実に読者を誤るの罪決して軽からずである。

氏よ、もし閑暇の許すべきあらば聖人遺文録中の雄篇たる「開目抄」や「観心本尊抄」を通読せられ、再三再四熟読玩味せられよ。さらばその教義の如何に深遠なるかを識得しきとくするの日あらんか。

身延山におけるの醜態を爬羅はら剔抉てっけつせられたるは或いは事実ならんも、そは其の教義そのものの悪しきにはあらず、経文に所謂いわゆる「悪世の中の比丘」なる者の仏陀予言の実現にして、決して怪しむに足らずである。我輩も貴説の如く「職業的僧侶」の堕落は実に慨歎に堪えぬのであって、これが撲滅を期して止まぬのである。されど好男子惜しむらくは兵法を知らずである。氏の熱誠にして真摯なる今より日蓮の教義に接触するのみならず、これを身読しんどくせられよ。しからば即ち哲学的なる一念三千論と、宗教的なる久遠くおん実成じつじょうの本仏とは、氏の疑惑を釈然たらしむると同時に、その利益りやくくるの機を見出すことを得んか。かえって妄評もうひょうを加えたるの罪は寛恕かんじょあれ。

〔大正10年8月27日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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