名古屋労働者協会の諸君に呈す

鵜飼桂六

私の人生観は常に私の宇宙観より出発する。無論これは私一人のみの見解ではない。深夜仰いで星空を眺める時、言い知れぬ爽快の気分になる。そして私の魂はいつかその世界へ飛んで行く。けれどもそれはホンの瞬時にすぎない。いつしか私の魂は地上のことを考えている。

私は貧しい。無一文である。したがって私はすべてのものをして、私のような生活に入らしめたいと要求する。わけもなく金持の強欲非道が腹立たしくなる。どうかしてこれを撲滅したいと願う。しかし私自身の微力を思う時、結局なんにもならぬと諦めてしまう。畢竟ひっきょうこの世界にあるものは有るがままの実在であって、どうすることも出来ない厳粛なものである。

いま資本家は富んでいて、労働者は貧しい境遇に置かれはいる。だから社会主義者や労働運動家は貧富の懸隔けんかくを軽減せしむるために、労働者が資本家に代ってその天下を取らねばならぬと説く。なるほど道理である。されど従来の歴史が繰返したように、未来にも現代のような金持ちと貧乏人の対立する社会を予想せざるを得ない。そこで私はいつもいつも外部の「物質改造」より「精神改造」の方が大切だと痛感して来る。こう痛感して来る時、真に妻を持ち、子を持ち、酒を飲み、煙草を喫するということが恐ろしくなって来る。よしんば人生は一大矛盾であるにしても、なるべくその矛盾は避けなければならぬ。すなわちそのためには「禁欲生活」を心懸こころがけることを要する。ことに今日のように頽廃思想と享楽気分の熾烈なる時代には、一層緊要きんようなる重大条件である。

かく言わば、或いは偽善と嘲笑し、或いは偽悪と罵倒する浅薄者流があるかもしれぬ。また或いは現実の苦悩生活を知らぬものの独断であると批難するものもあろう。けれども私は信ずる、あくまでも無産者であるがためには、最も苦悩多き「禁欲生活」を続けるより外なしと。こう極論すると、社会主義者や労働運動家は言う、汝は未だ労働の苦痛を知らずと。言うなかれ。労働の苦痛は実に一瞬時である。何物の享楽資料をも摂取せず、何物の肉的生活にも耽溺しないことが、どうして易々たることと言い得べきぞ。もしく言って憚らぬものがあるならば、自らこれを体験してみるがよい。女の好きなものが一切の女を近づけず、酒の好きなものが一切の酒を飲まず、煙草の好きなものが一切の煙草を喫しないということは、そのこと極めて簡易に似て、実は難業苦行である。

人類史はかなり長いが、その間に徹底的に「禁欲生活」を行ったものは、釈迦しゃか基督キリストというように指を屈するほどよりない。これでも宗教の価値はゼロであると協会の諸君は言われるか。あってもなくてもどうでもよいと言われるか。ブルジョアの遊戯であると言われるか。廃頽思想であると言われるか。享楽気分であると言われるか。互いに地上に「極楽世界」を建設せんとする者が、単なる小生観、単なる小感情にとらえられていては駄目である。どこまでも大きなグループを造って、正々堂々と戦わなければならぬ。それには根柢こんていを宗教に措いて、何物にも動ぜぬ沈勇と、また何物にも恐れぬ信仰とをもって縦横無尽に馳駆ちくせよ。然らば諸君のとなうる自由と平和とは来らん。

〔大正10年9月12日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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