鵜飼桂六氏に問う
佐藤哲朗
鵜飼兄足下、
私は足下の「名古屋労働者協会の諸君に呈す」を読みて御尋ねがあります。それは足下の言わるるところの「禁欲生活」ということは、どういう意味であるかということであります。御説のごとく外部の物質改造より精神改造の方が大切だということは私も至極同感であります。今の時代においては尚更のことで、大いに宣伝とかをする必要があると思います。
けれども、足下が足下のごとく貧しい無一文生活の仲間へ、すべてのものを入らしめたい、と要求せられるほど徹底的に信仰せらるるにもかかわらず、金持の強欲非道が腹立たしくなるのでしょうか。それから妻を持ち、子を持ち、酒を呑み、煙草を喫する、ということがどうして恐ろしいでしょうか。浅薄なる智識の持ち主で、思索の鈍い私には解し得られない、また然く稽え能わないのであります。
足下、
私は試みに想う――足下の無一文生活が即ち「禁欲生活」ということであると解するなれば、金持ちの強欲非道を見ても微力であって何とも致し方が無いから諦めてしまえ主義なのですか。無一文では妻を持ち、子を持ち、酒を呑み、煙草を喫することはできないから恐しいということになるのですか。そしてまた「労働の苦痛は一瞬時である」、何でもないことである、まだそれよりも「女の好きなものが一切の女を近付けず、酒の好きなものが一切の酒を呑まず、煙草のすきなものが一切の煙草を喫しないということは、そのこと極めて容易に似て実は難行苦行である」から、論より証拠、一つ体験して見るがよい、と教えられるのですか。単なる小主観や小感情に囚えられずに、釈迦や基督に真似た宗教的根柢のもとに、何物にも動ぜぬ沈勇と、また何物にも恐れぬ信仰とを以て縦横無尽に馳駆せよ、然らば自由と平和の極楽世界が建設されるということですか。
足下、
果して足下の教えられるところのものが前述のごとくであるなれば、私は足下の「禁欲生活」なるものは所謂机上の空論で、現実の労働者、いな世間相を解しない愚論であると駁します。足下の無一文生活の悲哀さ加減を肯定せずには居られませぬ。最も露骨に而も率直に言うなれば、「武士は食わねど高楊枝」、「腹は空いてもひもじうない」千松式ではありませぬが、「腹は空いてはいくさは出来ぬ」です。如何に「精神改造」は理想的でも「食わず呑まず」ではどういたしましょう。無一文主義は高尚でも、現在の妻や子をどういたしましょう。国家民族の将来を考うるよりも、現実のこの境遇をどういたしましょう。
足下、
私は思います――余り高踏的に釈迦や基督を真似てみても仕方がない、まずは一般的には覚束ないことで、ただそれを究竟的の理想と視るべきであろうと。そして「禁欲生活」などと愚にもつかぬペンキ式の看板よりも内容の充実した「知足安心主義」のほうが遥かに現代的で実行のしやすいことであろうと。
すなわち御説のごとく、畢竟この世界にあるものは、有るがままの実在であって、吾々のごとき微々たる弱者の如何とも致し方のない厳粛なるものであるから、大自然の摂理に任じておいて、真の極楽は心にあり、安心は外には無い、また与えてもくれない、足下の人生観のごとくに星や空を眺めて、ツイ心魂はウカウカと吸い付けられて行く刹那の情操をば、私は確乎と、地上の吾が身に引き締め懐き締めて、一歩また一歩この身の向上発展を期するものである、と。
足下、
敢て御高教を垂れ給え。(大正10・9・12稿)
〔大正10年9月26日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕