鵜飼君に答う (上)
荒谷宗治
鵜飼君、御忠言ありがとう。私の拙い文章をそれだけに注意して読んで下さっただけでも十分御礼を申上げたい位です。
けれども、ただ残念な事には、あなたは、あなた自身も云うておられるように、私の根本思想についてはまだ何らの諒解もできなかったようです。無論、かの文章はあまりに短小で、文字も足りませんでしたが、でも、もしもあなたが最初から現在あなたが囚われている小乗仏教的な偏倚せる立場に立っての批判的態度を執ることなく、個々の文字に拘泥しないで、全体の論旨をいま少し深く味って下さったなら、も少し好く御分りになったであろうと思います。尤も、少し失礼な言い方ですけれど、現在のあなたのように小乗的厭世観に囚われて居る人に、大乗円頓の妙機に参し、生死即涅槃の絶対境に立脚して、反って転廻一番、相対的人間生活の究極的価値を考えようとする私の論旨があんな短小な文章だけでは到底正当に理解され得ないのはむしろ当然の事でもあるのです。
あなたは霊とか肉とか、唯心とか唯物とか峻厳な区別を付して、そこに全然異る二つの世界があるように考えて居られるようですが、それが即ちあなたが不徹底なる小乗的差別観に囚われている何よりの証拠です。そんな差別観こそブルヂョア的概念の遊戯に耽る宗教空想家の特産物です。無論、私とても霊と肉、精神と物質との差別を全然認めないのではありませんが、これは決して現実の世界にそういう全然異る二元的世界が存在するという事を意味するのではなく、ただ人類の思想もしくは直観を不完全なる文字または言語をもって表現する時に、已む事を得ずして付随する概念です。もし我々がそんな偏倚せる概念に引きずられて、この雄大なる渾一体にして而も複雑なる万有の相対的体系を構成する自然もしくは人生の諸相を審かにするならば、必ずや論者自身が結局二進も三進もならない窮境に陥ってしまうでしょう。あえて古来幾多の思想家宗教家の例を引くまでもなく、現在のあなた自身の思想と生活との間に横わる大きな矛盾が何よりも雄弁にそれを証明するでしょう。あなたはあらゆる機会に、貧の福音を説き、無所有主義を高調して居られるようですが、而もあなたの毎日の生活は果してあなたのその主張を何ら裏切るものがないと確信することができますか。あなたの毎日の食べ物、着物、住む家、それらはたとえ何人かの好意の布施であり、供養であり、或いは恵与であろうとも、その故をもってあなたは絶対的に無所有であり、物質否定の霊的生活を営みつつある者と云うことはできないはずです。いわんや「望みを嘱すべく地上の生活は余りに虚偽と混乱の裡に漂い過ぎて居る」と絶叫するあなたが、その地上生活の改造を云為するがごときは、あまりに悲惨なる滑稽ではありませんか。
〔大正11年2月21日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕