荒谷君に送る

鵜飼桂六

労働運動はその本質において、社会主義運動であり、階級闘争であり、無神論である。しかるに荒谷あらや君は最近『労働運動者として』と題する一文の中にて、あえ詭弁きべんろうかつ皮肉を交えて、しきりに経済と道徳の調和、物質と精神の調和、科学と宗教の調和を鼓吹こすいしておられる。すなわちまず荒谷君の冒頭言に従えば、「労働運動の炎は、白熱化した宗教的人類愛からと、冷たいパンの残砕ざんさいから燃え上る」とのことである。そして荒谷君は、「働いても、働いても、喰って行かれない人間生活に堪え兼ねて、『我にパンを与えよ』と叫ぶのは無論純粋の経済運動だ」と断言しておきながら、さらにその次にはこれが「けれどもそれだから、そこに何らの尊貴なる宗教的意義がないとするなら、それこそ憐れむべき、『神』も『人生』も知らない薄っぺらな宗教者流の寝言だ」という精神主義に一転している。私はいよいよもって迷宮に入らざるをえない。更に荒谷君は「生きようとする意志がパンを要求するのだ」と云うかと思えば、「我にパンを与えよとは人間を通じて叫ばれる神の声だ」と妙な所へ、パンと神とを一致させている。私は重ね重ね荒谷君の根本思想が那辺なへんりてそんするやを怪しまざるをえない。

敢て問う、パンを要求する運動と、霊を要求する運動とが、全然同一のものであるならば、何も荒谷君の謂うごとく、別に新しく労働運動を起すの必要がないではないか。けだし、現在の一切の運動は、ことごとく皆パンを要求する運動なるがためである。すなわちパンを要求することが必然に霊を要求することなるが故である。わざわざ基督キリストの十字架を持ち出し、六ヶむつかしい理窟を付けて「愛の法則」がどうだの、或いは「憎悪の法則」がこうだのと説く必要はないではないか。ここに荒谷君の資本主義と人道主義との調和、さらに他の言葉で謂えばうるわしい霊肉一致の概念にとらえられた微温不徹底なる社会改良主義の半面が頭をもたげ来るのである。

私は確信をもって断言する、現代の社会が要求する限りにおいての改造運動は、マルクスのごとき純粋唯物史観によるか、然らずんば、釈迦、基督のごとき純粋唯心史観によるかの二つの道なることを。いな、私は更に思う、仮令たとえこの次に来るべき世界が社会主義の時代であり、つ共産主義の時代であって、野心に燃えた革命児が勇ましい行進の曲を奏して凱歌の声を挙ぐるあかつきあるにもせよ、私は私の個性が持つ本質的要求より一歩でも踏み出づることを避ける。私は私が無一文で、無宿むしゅくであることの以外に、すべての者をしてかくあらしめよと強制しない。望みをしょくすべく地上の生活は余りに虚偽と混乱のうちただよい過ぎているからである。

釈迦は、基督は、真実の意味においては、社会改造論者でもなく、労働運動論者でもなかった。謂わば世に棄てられたる落伍者らくごしゃであり、廃残者はいざんしゃであった。しかし世に棄てられたる落伍者であり廃残者であるところの釈迦、基督が今もなお燦然さんぜんたる異光いこうを放つ所以ゆえんのものは何ぞや。そは実に人間としての辿たどるべき最善の道を一直線に進み行きたるがためである。基督はその一生を純真なる孤独生活に送り、釈迦は一度ひとたびもらいたる妻を棄て、子を棄て、そして遂に親を棄て、宝を棄て、王位王冠を棄ててまで、真実なる人間の道を歩いた。いま荒谷君は、「労働運動の本当の目的はこの『憎悪の法則』なる資本主義制度を地上から一掃して『愛の法則』の支配する地上の天国を実現することだ」と言い、進んで「この意味において我々の運動は真純なる現実的宗教運動だ、されば我々の本当の敵は資本家ではない、資本主義そのものだ、否資本主義でもない、さらにその根拠をなす人間の利己性そのものだ」と論じているに想い合わせて、それは労働運動ではなくて、宗教運動であると言う感に打たれる。荒谷君は強いて宗教運動を労働運動だと言わんがために、すこぶる苦しんで物を謂っておられるが、私は何故にしかく荒谷君が首鼠両端しゅそりょうたんの道を歩まなければならないような態度に居るかということを、内々危ぶんでいる。社会の人気、世間の評判、そんなものはどうでもいい。わらうものにはわらわしておけ。ののしるものには罵らせておけ。内に顧みて衷心いささかもやましき所なければ、千万人といえどもれ行かんかなの気概きがい肝要かんようである。

荒谷君は目下唯物に徹底せず、唯心に徹底せず、唯物に未練を残して、しかも唯心に食指を動かしつつあるように、私にはえるから、敢てここに苦言をていしたる次第である。妄言もうげんの故を以てこれを棄てられることなく、厳粛に自己の態度を反省していただきたい。

〔大正11年2月13日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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