崇物主義

水野昌蔵

愛のブローカーであるキリスト教の牧師さん達よりも、株式のブローカーである株屋さん達の方がより多く人間味があると私は思う。

体験の哲学や体験の宗教を議論して夢の道を辿たどる哲学者や宗教家達よりも、利殖のために奮闘する実業家や賃金のために苦役する労働者諸君の方が、どれほど社会の進化発展に貢献が多いことだろう。

と云うて私は哲学や宗教の価値を認めぬものではない。時代に順応する哲学および宗教が社会の進化発展に必要欠くべからざることはウィンデルバンドがの哲学史に論ずるごとく自明の真理である。しかし哲学のための哲学や宗教のための宗教が、我々人類の発展のためにどれほどの効果があろう。なるほどそれは特殊なる個人のためには暇つぶしになろう。しかし果してそれが最も人間らしき人間生活に必要であろうか。

天恵や自然の財源が無限でないこの地球上に生棲せいせいしてる一生物として、人間が人間生活のために利益や効果や必要を考慮せずしてよいものであろうか。どこまでも我々人類は色々の意味におけるプラグマチズムを遵奉じゅんぽうせざるをえない。生活そのものの概念は既に必要利益効果の諸観念より成って居るものと私は確信する。

物質問題を目的あるいは根拠としない思惟や活動が人間生活に必要であろうか。政治、哲学、宗教、藝術等すべて社会の諸現象は経済的条件を基礎としており、またくあらねばならぬと私は思う。ここにおいて私達わたしらはどこまでも経済条件が基礎であり、他の社会現象は、その上層構造なりと主張するマルクスの唯物史観の正当なる解釈の柔順じゅうじゅんなる信服者しんぷくしゃであらねばならない。

諸君!愛の宣伝によって、今日の欠陥矛盾多き社会を円満に改造し得ると思わるるか。愛の宣伝、なるほど結構である。しかし愛の実現は如何にして始めて可能であろうか。世界における最純なる愛の実行者アシジの聖者フランシスは諸君と同じく私も最も敬愛する一人である。さりながられ聖フランシスよりすべての物質問題を抜き去った場合、私等はかれの愛を認識し得るか。乞食となって人類の幸福を祈る西田天香にしだてんこう氏は確かにえらい人である。しかし私は西田氏の愛は未遂の愛だと思う。愛の大きさは物質の量のおおいさに正比例するものではないが、物質に表現せられて始めて愛は完成さるるものと思う。他人のことはいざ知らず、私は、私のために幸福を祈っている人よりも現実お金でももうけさしてくれる人の方を有難く思い、かつその人の愛を私は適切に感ずる。賢明なる諸君は如何いかん?経済条件が不完全にして愛が実現完成し得るであろうか。

今日の労働問題社会問題を愛のみによって解決せんと企つるは、あたかも木枝もくしによって月を捕えんとするがごとき観あり、今日焦眉しょうびの問題であるすべての社会問題はその源を物質問題に発し、その目的を物質問題に帰せるのではないか。政治、宗教、道徳、教育、藝術の改造は物質問題すなわち経済問題のための改造あるいはそれに順応する変化ではなかろうか。

経済組織改造のために一手段であり一階梯である普選運動の成功を祈り、自分の主張を不得ふとく要領ようりょうに発表したまま私はペンをく。

〔大正11年2月27日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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