抽象的の愛
苦悶の中でも卑屈な苦悶、僕の人格を下劣にするような苦悶、たとえば空腹の類のようなものは、慈善家も認容してくれるけれども、少し高尚な苦悶、たとえば理想のための苦悶なんテものは、極めて少数の場合を除くほか、決して認容してくれない。
何故かといえば、僕の顔がその慈善家の空想していたような、理想のための受難者の顔と、全然違っているからというのだ。これだけの理由で僕はその人の恩恵を取逃してしまう。しかし決してその人が冷酷なためではない。
だから、乞食、ことに
どうかすると遠方から愛し得る場合もある。しかし、そばへよっては殆ど不可能だ。もし
ドストイエフスキーは、こんな言葉を
吾々は抽象的には隣人を愛し得るが、事実としては憎悪と好愛との感情で決せられるものである。人間はやはり感情の動物である。
〔大正11年3月2日 『名古屋新聞』 「別天地」欄〕